1945年生まれ。兵庫県揖保郡新宮町(現たつの市)出身。’68年東京大学法学部卒業後,自治省入省。鳥取県,佐賀県,宮城県,国土庁,自治省に勤務。’84年静岡県教育次長,総務部長。’87年運輸省航空局課長。’89年自治省課長。’95年審議官。’96年兵庫県副知事。2001年から兵庫県知事を5期20年務めた。現在,公益財団法人ひょうご震災記念21世紀研究機構特別顧問。
私は実は阪神・淡路大震災を経験していません。当時は自治省の大臣官房の総務課長として震災の現地対策本部への派遣者を人選していました。翌年4月に当時の貝原知事からの要請もあり,兵庫県副知事に着任いたしました。今年の震災30年の式典は天皇皇后両陛下にもお見えいただき無事に終えました。
阪神・淡路大震災から30年を迎え,災害列島日本が明確になりつつあります。南海トラフは30年以内の発生確率が去年80%程度に格上げになりました。これはいつ起こるかわからないということです。昨年3月に急逝された五百籏頭眞先生は「大災害の時代」と定義しました。能登半島は道路や河川,港の復旧・復興に苦労しており,復旧のスピードが足りていません。阪神・淡路は6カ月で町のがれきを処理しました。がれきを処理して,家の中を整理して,ようやく復旧が始まるのが基本です。その意味で能登はもう少し支援が必要です。人手が足りない点は関係業界に割り振るなどして,拍車をかけられたらと思います。
災害後30年は「ワンジェネレーション」や「30年の危機」ともいうように災害が忘れられ,経験者がいなくなる時期です。今や阪神・淡路にも2~3割の人しか経験者がいません。スマトラ沖地震で大津波があったインドネシアのアチェでは30~50年ごとに地震がありますが,被害に遭った経験が次の地震の時に引き継がれないのが課題でした。このため,兵庫県民の義援金を集めて津波博物館を造り,記憶をつなぐ事業を行いました。災害を忘れず/伝え/活かし/備え/つなぐ,という五つが重要な役割を果たします。
災害時はリーダーシップが重要です。東日本大震災では現地から情報が入ってきませんでした。現地は災害の真っ只中なので,物事を整理して外に発信する余裕はありません。ずれが出てもいいので被災直後にはプッシュ型の支援が必要です。無駄を気にしたら命が失われます。災害情報は取りに行かないといけません。われわれは震災直後に「フェニックス防災システム」を用意しました。震度6の地震が生じたら詳細がわからなくても,初動ですぐに派遣して,物資を送りながら是正していきます。
南海トラフ地震では,南あわじ市の福良港に8mの津波が来る想定ですが,今の湾口防波堤では3~4mまでしか避けられません。今のうちに沿岸部の三重や和歌山,徳島,高知と対応を作り上げる必要があります。10年間,私が関西広域連合長だった頃は,事前の支援計画が整備できませんでした。また,被害が予想される地域には支援を受ける「受援計画」も必要です。阪神・淡路の時は復興計画を震災の6カ月後に作り上げました。2月に有識者会議を開き,3月に基本方向を提言,4月に復興計画策定調査委員会を発足し,7月に計画答申を受けました。計画といえば震災11年後の2006年に開催した「のじぎく兵庫国体」は,震災が起きた年の秋には感謝の大会にしようと決めていました。復旧・復興は計画的に進めるとそれなりのスピードで進みます。
私たちのテーマは「創造的復興」でした。元に戻すだけではなく時代の流れを先取りする復旧・復興です。抽象的な表現ですが,県民が一つになってやり遂げる目標を持てたことが復興の立ち上がりの動きを大きくしました。’15年の第3回国連防災世界会議だけでなく,能登半島,熊本地震のスローガンも同じ「創造的復興」でした。
事前防災として支援の受け入れや想定被害に対する復興手順を計画しておけば,復興がスムーズになります。住宅は耐震化も大事ですが,課題は二重ローンです。ローンを借りた住宅がつぶれたら,建て直しにもローンが必要です。阪神・淡路では高いほうの利子を補給しましたが,もう少し的確な対応はなかったのかと思います。また高知では半径300mごとに津波のために大きな避難塔を建てています。そのようなインフラ整備も一つの事前防災です。
兵庫県が独自で作った「住宅再建共済制度」は,年5,000円の掛け金で住宅の建て直しに600万円の共済給付金を支払う制度ですが,10%しか加入率がありません。この制度も地震がすぐ発生しそうな地域だけでしか賛意が得られず兵庫県だけの制度になっています。これを全国に普及させるのが私の願いです。
災害弱者である障害者への対策も課題です。障害者の救出や避難所への移動は,個別計画と避難所の地域計画とを用意する必要がありますが,兵庫県でも15%ぐらいしかできていません。
復興の財源は阪神・淡路では10年間で16兆3,000億円の復興予算を消化しました。県は1兆3,000億円の借金を作ったので,私の在任中は減らすことに終始し,2,000億円まで減らせました。国からの復興交付金はメニューにない限り認められなかったので,独自な財源として,そのころ高かった利息を元に9,000億円の復興基金を作り,きめの細かい対応をしました。
また五木ひろしさんや佐渡裕さんといった音楽家が心の復興として震災後や30周年に記念コンサートなどで応援してくれました。
今後の課題は避難所の環境整備です。能登は雑魚寝だったので段ボールでベッドを作りましたが,間に合いませんでした。生活用水が確保できたらトイレは清潔に保てます。
災害は個性的です。事前復興や受援の計画は実情に応じて変える必要がありますが,マニュアルがあるとスピード感が違います。私が防災庁に期待するのは,防災力を事前に高めて事前防災を徹底していくヘッドクオーターになってほしいということです。