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2024年9月13日(金)第4,936回 例会

出雲神話と考古学

佐 古  和 枝 氏

関西外国語大学
教授
佐 古  和 枝 

鳥取県米子市出身。同志社大学で考古学を学ぶ。大学で教鞭を執るだけでなく,市民や子どもに考古学の楽しさ・大切さを伝えるための講演,執筆など多様な活動を展開。文化庁文化審議会文化財分科会第一・第三専門調査会委員,長崎県文化財審議委員,山口県文化財審議委員,NPO「むきばんだ応援団」副団長などを務める。

 今日は「考古学と神話」という,普段ご縁のない世界で気分転換をしていただけたらと思います。私は考古学が専門で,山陰がベースです。考古学と神話を結びつけるのは,伝統的な考古学の先輩には叱られそうですが,山陰の古代史では出雲神話は避けて通れません。

記紀にみえる出雲神話と出雲大社

 出雲といえば「神々の国」。旧暦の10月は,全国の神々が出雲に集まるので,地元では「神在月」と言います。神様の国になったのは,「古事記」,「日本書紀」の「出雲神話」からでしょう。いずれも8世紀の初めに多分,天皇制を始めた天武天皇が,国家づくりをする中でできた歴史書です。天皇は神様の子孫なので絶対であり,うちの家系しかなれない,と説明する神話から始まっています。
 神話の前半は,高天原の神々が出雲のオオクニヌシに地上世界の国譲りを交渉して,そこを支配するためにやってきたニニギが天皇家につながっていく話です。古事記は,その天孫降臨までの話が全体の8割で,全体の6割が出雲の神々の話です。最初の国生みでイザナギとイザナミがアマテラスとツクヨミとスサノヲを産みます。スサノヲが高天原を追放される前に,アマテラスとの賭けに勝ち,生まれた男神の中にニニギのおじいさんがいたのです。そう考えると記紀の神話の半分以上は出雲の神様の話です。
 その後,子孫のオオクニヌシに国譲りの要求があり,引退の条件として建てたのが出雲大社でした。「古事記」,「日本書紀」に書かれている出雲大社はいずれも「柱が太く,高く」と書かれています。平安時代には出雲大社は日本で一番背の高い建物で知られていました。高さ48m,今だと14~15階建ての建物です。発掘調査でもすごく大きな3本組の柱が出てきました。平安時代に訪れた僧侶が「此世の事とも覚えざりける」といったほど,すごく高く,本殿の形も真四角という異例な建物でした。

考古学からみた“出雲的世界“

 考古学的には,出雲といえば青銅器です。剣,鉾,戈(か)は武器ではなくマツリの道具として弥生人が非常に大事にしたものです。荒神谷遺跡には一カ所に358本も銅剣が埋まっていました。それまでに全国で出土した数は300本で,弥生時代の山陰はノーマークでした。隣にあった銅鐸は日本で一番古いタイプ,銅鉾は九州製とわかり,びっくり仰天しました。
 その後,直線で3km離れた加茂岩倉遺跡には銅鐸が39個。一カ所で見つかった一番数の多い事例となりました。出雲は,銅剣が全国で一番,銅鐸も全国で最多,銅矛は16本で福岡の18本の次に多い。やはり出雲神話は神マツリの世界であって,出雲には独特の世界が構築されていたのではないでしょうか。
 また,出雲大社のすぐ東側の命主(いのちぬし)神社の境内で,江戸時代に銅戈とヒスイの勾玉(まがたま)が見つかりました。そうなると出雲平野の東西で,弥生人が大事にしたマツリの道具が全部そろいます。しかも勾玉は,日本の遺跡から出土した中で最高級品だそうです。

古墳時代まで独自のマツリを貫いた出雲

 宍道湖の東端の田和山遺跡には1棟だけの真四角の9本柱,出雲大社の本殿と同じ大社造りの建物があります。私が関わる妻木晩田(むきばんだ)遺跡にも,山の先端の一番見晴らしのいいところに,同じ造りの建物があります。田和山遺跡は立地が高いので目線が高くなります。古代では支配者が神の宿る山に登り,神様とコミュニケーションをして,その意向を現実世界に反映する「まつりごと」や,支配領域を見渡す「国見」をやった。田和山はそんな国見の丘だったのか。平地にある出雲大社も目線を高くするために建物を高くしたのか。それらは弥生の伝統ではなかったか,と思います。
 佐賀県の吉野ヶ里遺跡に「物見やぐら」と言われる高い建物が復元されています。「魏志倭人伝」の卑弥呼の宮室にあった楼館という2,3階建ての高い建物が,吉野ヶ里にもあったのだろうとなりました。佐賀県教育委員会が根拠としたのは,鳥取県・稲吉角田遺跡の弥生時代の土器に描かれた高い建物でした。それは稲吉の港のほとりにいた舟からの目印や,航海の安全を見守るためだったのだろうということです。近年,鳥取県の青谷上寺地遺跡で出土したのは,弥生時代の一番長い柱で,吉野ヶ里の物見やぐらと同じ10mの高さの建物ができることが証明できました。
 弥生時代の後期には,山陰では青銅器のマツリがいちはやく終わり,今度は有力者の墓を立派につくる「墓づくり」,墓のマツリに替わります。四隅突出型という山陰独特の形で,有力者が遠方の人たちと連携を示すためのお墓のスタイルです。これを全国的にしたのが「前方後円墳体制」です。ヤマト政権を支持した人は,積極的に前方後円墳を造りました。でも古墳時代の最後まで,弥生の四隅突出型墳丘墓の伝統を貫くのが,出雲です。ひたすら自分たちの頑固なこだわりを貫いた。県下最大の古墳が前方後方墳なのは島根県と富山県だけです。昔は,出雲は前方後円墳を造らせてもらえない敗者の国と言われていたけれど,最近は出雲が前方後円墳を造らないことをヤマト政権も容認していたと見られています。
 出雲は神マツリの世界を古墳時代の最後まで貫いていたけれど,天皇家はオオクニヌシに国を譲ると言わせて主導権を握ったことを見せたかった。そのために,たくさんの出雲の神々を引っ張りだして物語を作ったのではないかと思っています。
(スライドとともに)