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2023年12月15日(金)第4,904回 例会

「一期一会」~バレエを通じて~

針 山  愛 美 氏

一般社団法人 イーアイアーツ
代表理事
針 山  愛 美 

ボリショイバレエ学校を首席で卒業。モスクワ音楽劇場バレエ団,ボストンバレエ団などを経てベルリン国立バレエ団で活躍。モスクワ国際バレエコンクール特別賞,パリ国際銀メダル,ニューヨーク国際銅メダル等受賞多数。海外で活躍するバレリーナとして情熱大陸,NNNドキュメントに出演。
神戸女学院大学元客員教授,吹田市国際交流大使,Awaji World Ballet芸術監督。

 今日はステージで最初に1曲,冒頭だけ踊りたいと思います。「白鳥」はチャイコフスキーの「白鳥の湖」という有名なものがあります。チャイコフスキーの「白鳥の湖」は,私の人生の中で様々なハプニングのもとに踊った作品でもあります。ただ,今回はサン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」の中の1曲「白鳥」で,女性のソロでよく踊られる「瀕死の白鳥」を踊ります。悲しい踊りです。(バレエ被露)

過酷なロシアでの修行時代

 私が13歳の時に初めて行った外国はソビエトでした。その時はペレストロイカの前で,1991年の8月24日にウクライナが独立しました。現在,日本に避難しているウクライナのダンサーを支援していますが,こうしてつながるとは思っていませんでした。
 13歳の時に初めて渡って,その12月にソビエトの崩壊が始まるわけですけれども,中学卒業後の16歳の時に1人で旅立ち,それから30年,海外で過ごしてまいりました。16歳のときに留学した時はまだソビエト崩壊の影が残っていました。地下鉄に乗ってできたばかりのマクドナルドに向かったら閉鎖されていて,その横を戦車が何十台,何百台と通るのを目撃しました。パスポートは大使館にビザの更新で預けていたので,出国しようと思ってもできませんでした。私は日本とつながりがあるところから留学に行ったのではなく単身だったので,両親は私に一生会えないかもしれないと覚悟したそうです。
 ロシアのボリショイバレエ学校での3年間は過酷でした。当時は水しか出ず,暖房を付けたりお湯を出したりすることができる時間が決められていて,11月の本当に寒い中,ダウンジャケットを着て,お金を払って地下鉄の駅に入り,中で手紙を書いていました。そこが暖かかったからです。食べ物もなくて,おばあさんが手作りで焼いたパンに行列ができたりしていました。インフレもすごくて,今日100ルーブルだったものが明日には300ルーブルになっていたり…。16歳の私には何が起こっているのかわかりませんでした。そんな世界の中でバレエだけが救いだったというか,その時からバレエは私の人生でした。
 それでも,17歳の時に挫折しました。両親に「もう無理」と伝えたら,「帰ってきなさい」と言ってくれました。「頑張りなさい」と言われていたら,つぶれていたかもしれません。帰国して,抜け殻のように何もしない1ヵ月を過ごしました。その時間に気付いたのは,「やっぱりバレエが好き」ということです。モスクワに戻りました。
 私が卒業する時,ボリショイバレエ団はロシア人しか入れない決まりでした。私はモスクワ音楽劇場バレエ団で働き始めました。すごく素敵なバレエ団でした。そのバレエ団で入団1年生が最初に出演できるのは,群舞だけです。ソロで出演するにはコンクールに出るしかないと思い,19歳の時に団幹部に相談してパリの国際コンクールに出ることになりました。そのコンクールでは銀メダルをいただきました。

世界の舞台へーバレエを通して伝える願い

 その後,ヨーロッパでオーディションの旅に出て,ドイツのデュッセルドルフから近いエッセンバレエ団に行きましたが,ドイツではそれぞれの家庭がありアフターワークは別々という感じだったので,19歳の私は,本当に仕事でバレエをしている気分になり,途中で辞めてしまいました。
 その後,アメリカのジャクソンでバレエコンクールがあり,アメリカに行く決意をしました。インターナショナルバレエ団,インディアナポリスのクリーブランド・サンホセバレエ団に所属しましたが,ボストンバレエ団に移籍しました。1年で学べること,経験すべきことができたら次のチャレンジをしたいという性格だったのだと思います。
 ボストンバレエ団に移籍するために引っ越ししてすぐのときに,9.11のツインタワーテロがありました。エアポートは閉鎖され,荷物も何もないまま,落ち着かないまま1~2ヵ月過ごしました。アメリカのバレエ団はスポンサーで成り立っていましたから,11人が解雇され,雰囲気は悪くなりました。アメリカを出る決意をしました。
 その後,ベルリンに行くと3つのオペラ劇場のバレエ団を1つにまとめるため,国際的なオーディションを行うという話を聞きました。500人の中の1人だったのですが,ご縁をいただくことができました。それが2004年です。そこでベルリンという街に魅了されました。仕事をしているバレエの時間と,アフターワークに新しいことへ挑戦したいという気持ちのバランスがよくて10年間過ごしました。
 コロナ禍に入る前は神戸女学院大学で客員教授をしていました。ただ,ベルリンに戻ろうかなと思っていた時に淡路島でご縁をいただき,演出を担当したり,初めての方にも楽しんでいただけるようにバレエを解説付きでやってみたりしました。バレエを一人でも多くの人に見てもらって,明日頑張ろうかなとか,やってみようかなとか,そういう気持ちになってもらいたいと考えていた最中,ウクライナで戦争が起こりました。緊迫した中で日本に来てもらえないかと声をあげたことがきっかけで,ウクライナのダンサーとAwaji World Balletを立ち上げて一緒に活動することになりました。バレエを通して現実からちょっと離れた世界に触れてもらうことで勇気とかパワー,夢を伝えたいと思っています。
 文化芸術を通して,日々追われる以外の何かをお伝えしたいということと,「白鳥の湖」じゃなくて「かぐや姫」とか「夕鶴」など,日本の文化芸術を作品にしてパリ・オペラ座やボリショイバレエ団に呼んでもらえるような本格的なものをつくりたいと思っています。さらに,教育機関を整備し,日本のアーティストが少しでも仕事として活動できるような環境を整えたいと思っています。最後の最後まで,体が動かなくなるまで続けたいと思っています。