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2022年8月26日(金)第4,846回 例会

平生釟三郎について

加護野  忠 男 氏

神戸大学 名誉教授
神戸大学大学院 経営研究科
現代経営学研究所 顧問
加護野  忠 男 

1947年大阪生まれ。’75年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。神戸大学経営学部専任講師,’88年同経営学部教授,’98年~2000年同経営学部長兼同大学院経営学研究科長,’00年同大学院経営学研究科教授,’11年同名誉教授 甲南大学特別客員教授,’18年神戸大学社会システム・イノベーション・センター特命教授。

 ただ今ご紹介いただきました加護野です。今は神戸大学にいますが,3年ほど前まで甲南大学におりました。ずっと甲南大学にいるものだと思っていたのですが,神戸大学の後輩である研究科長から「助けてほしい」と上手に言われまして。「すべて条件が悪くなりますが,加護野さんの愛校心に期待していますので」と言われたら,ノーと言えずに神戸大学へ行くことになりました。甲南大学時代,この大学はちょっと変わっているなと思ったのが,経営母体である甲南学園の創立者,平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう,1866–1945,大阪RC第5代会長)さんについて,きっちり研究している人がいないこと。自分で調べてみるしかないので調べてみると,平生さんは極めて重要な経済人,経営人なのです。

企業勤めの傍ら社会貢献

 平生さんは,まず東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険)で大きな実績を上げます。東京海上は1879(明治12)年の創業後すぐ,ロンドン,パリ,ニューヨークなどで損害保険(当時は海上保険)の引き受けを業務とし,急成長を遂げるのですが,’94年には会社の経営がおかしくなるような危機に直面します。その理由は簡単で,特にイギリスの保険の代理店になった会社がリスクの高い保険を引き受けてしまい,保険の支払いをすると会社が成り立たなくなるという状況に追い込まれました。
 その時に,ロンドンの担当者だった入社4年目の各務鎌吉さんと,入社間もない平生さんという,ともに当時20代後半だった2人がその原因を分析し,どうもリスクが高い保険を引き受け過ぎていたということで,代理店を全部切って直接自分たちで保険を販売するやり方に変え,東京海上を再生させたのです。各務さんは後に東京海上の社長,会長になった人で,平生さんもその貢献により,場合によっては東京海上を自分のものにできた,そのぐらいの力を持っていたのです。
 しかし,平生さんはそれを潔しとせずにサラリーマンを続け,東京海上の神戸・大阪支店長だった時代に社会貢献事業として,今はやりの言葉で言うと「社会起業家」として,甲南学園の創設,それから甲南病院の創設に携わりました。初めは1911(明治44)年に幼稚園から作りました(甲南学園は現在,甲南中学校が開設された’19年を学園創立の年としている)。平生さんはサラリーマンですからそんなにお金は持っていなかったのですが,お金を持っている人をうまく説得しました。自分のお金を寄付して社会事業をする人はたくさんおり,平生さんは,自分のお金も寄付したのでしょうが,お金持ちを説得してそのお金で社会事業をするということが上手でした。その点で稀有な人だと思います。

生協運動にも一役

 それだけではありません。平生さんが住んでいた旧住吉村(現在の神戸市東部)に那須善治さんという実業家が住んでいました。那須さんは相場師として株で大もうけをし,それを知った平生さんは「お金は社会のために使いなはれ」と説得。那須さんは「灘購買組合」という組合を’21(大正10)年5月に創設します。これは現在の生活協同組合コープこうべ(旧・灘神戸生協)の起源となる組織の一つです。
 灘神戸生協は極めて奇妙な生協で,キリスト教社会主義者の賀川豊彦さんが創設した「神戸購買組合」(灘購買組合に1ヵ月先立って’21年4月に創設)と灘購買組合が合併して誕生しました。神戸の街には中心に居留地があり,その東西両側に葺合,長田といったスラムがありました。賀川さんはそのスラムで一膳飯屋をしながら貧民救済に従事し,その延長として相互扶助の仕組みである生協運動を展開します。那須さんは,賀川さんの生協運動を参考にしながら,その東の旧住吉村を拠点に組合を作ったのです。神戸購買組合が貧民救済だったのに対し,灘購買組合は後に言われた「ブルジョア生協」であり,対照的とも言えます。
 旧住吉村を流れていた住吉川の周辺は今もお金持ちが多い土地ですが,当時は日本中からお金持ちが集まり,有名企業のオーナーや創業者ら大変なブルジョアが住んでいました。村では,省線(現在のJR東海道線)の北側に住んでいる人たちが多額の税金を払うので省線の南側の人々は税金を払う必要がないという,恵まれた環境だったのです。平生さんが甲南学園を創設する際も,そうした省線の北側に住むお金持ちのお金を使ったわけです。平生さんの後押しもあって組合を作った那須さんは,初代の組合長に就き,その運営に力を注ぎました。

経済人として活躍,政界にも名

 スライドの資料に沿って平生さんの業績を見ておくと,東京海上をはじめとした損害保険業界の近代化に貢献し,甲南学園を成功させた後に再びビジネスの世界に戻ると,危機的な状況にあった川崎造船所(後の川崎重工業)の再建も成し遂げました。また,大阪自由通商協会常務理事となって自由貿易を説き,経済更新会を組織して実力本位の経営を論ずるなど経済人として活躍する一方,貴族院議員や枢密顧問官に任ぜられ,政界にも名を留めています。広田弘毅内閣で文部大臣になると,義務教育の年限延長や官学と私学の差別撤廃,師範教育の改善を提唱しました。
 本日,ご出席の皆さんの多くは,経営者として優れた能力を培ってこられた方々だと思います。経営者の最大の貢献というのは,自らの能力を社会のために使うこと。ぜひ皆さんには,平生さんのようにこれからも社会貢献にその能力を使っていただきたい。皆さんのご健闘を祈ります。
(スライドとともに)