大阪ロータリークラブ

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2022年7月8日(金)第4,840回 例会

大阪RC を築いた人たち―星野行則と片岡安を中心として

佐 野  吉 彦 君

会 員 佐 野  吉 彦 

1954年生まれ。東京理科大学卒業,同大学院修了。’97年より安井建築設計事務所(’24年創業)の社長。日本建築士事務所協会連合会会長などを歴任。米国建築家協会名誉フェロー会員。’97年当クラブ入会,2005年度幹事,’19年度副会長などを務める。’12年の90周年記念行事に引き続き,本年の100周年記念行事を担当。米山功労者。PHF(M)。

 大阪RCの創世期を振り返る卓話シリーズが,これから何回か開催されます。その初代を務めます。100年前の1922年に大阪RCを立ち上げた2人はどのような思想を持った人であったかという話をしたいと思います。彼らの時代の空気をまず確認したいと思います。
 1920年前後の大阪は自発的で持続性のある多様な結社が生まれた時代。’14年,大阪工業会,大阪倶楽部,中央電気倶楽部。’17年,関西建築協会(現在の日本建築協会)の設立。’22年,大阪RCの設立。ほとんどまだ現役の団体です。星野,片岡は,ともに大阪倶楽部の理事を長く務め,大阪RCを設立。大阪のコミュニティを育てたキーパーソンでした。大阪RCでは星野が第1代目,第2代目の会長を務めて,片岡が7代目の会長です。
 星野行則は1870年に長崎の島原で生まれて,島原藩士。私の佐野の家もそうで,祖父・佐野又郎の姉が星野の兄と結婚しております。後に星野行則が加島銀行を経営,佐野又郎が行員となっています。片岡安は設計事務所を長く経営しました。私の祖父,私が現在経営している安井建築設計事務所の創業者の安井武雄が,片岡安の事務所に勤務。日本建築協会を片岡安が設立し,後に私が会長になっております。ご縁があるということでございます。

シカゴに学んだ20世紀初頭の大阪

 20世紀初頭の大阪に影響を与えたのがシカゴです。シカゴは世界システムへの意欲が積極的でした。社会問題を背景にシカゴを含めた北米の都市は社会改革を行う自由な結社を生み出しました。ロータリークラブ,JC,ボーイスカウト,ライオンズクラブ。そのビジョンと動きを,訪れた大阪の経済人はしっかりと見ております。この時期に星野は2度訪れ,シカゴで描かれたビジョンが大阪の背骨になり,自由な結社の誕生に影響しています。

理想を求める知的な場を目指した星野

 星野は,国境を越えた友好,世界システムへの関心を持っていました。それから世界の基盤,倫理の基盤をつくること,民間主体のコミュニティの育成に,ロータリーを通じて関わりました。経営者としてコンサルティングと言語改革に大変関心を持って,これを生涯手がけます。武家の出でキリスト教の信仰を得て語学を磨く。1891年に大阪に来て,神学校を卒業して,渡米します。帰国後の1897年加島銀行の専務理事となって,また加島信託を立ち上げました。経営改革論,経営効率化論について発言をし始めます。1911年にフレデリック・テイラーを紹介,’13年「学理的事業管理法」という本を翻訳します。
 ’21年ロータリーを大阪でもということで,欧米金融視察団に同行してシカゴに行って,ここで大阪RC設立の意志を伝え,星野とロータリーの歴史が始まりました。51歳でした。星野は「カナモジカイ」を始めます。カナモジで日本語を表記しようという運動です。当時は旧仮名遣い,国際競争に遅れるぞということです。戦前のロータリーの会報を見るとみんなカタカナです。大阪RCの活動を通じ日本語改革の実験をしたのではと思います。星野は経営の近代化や日本語やコミュニケーションの合理化を構想,民間での自発的な達成を目指した。星野の考えるロータリーも含めた「人の集まり」は,友好的なサロンであり,理想を求める知的な場であったのではと想像しております。

事を動かす,目的達成の拠点をつくった片岡

 さて,片岡安は,建築の専門家から出発しました。さらに社会基盤づくりへの提唱者となっていく。1876年,金沢生まれ。帝大を卒業して,日本銀行臨時建築部技師となって大阪へ。「辰野片岡建築事務所」を開設しました。この事務所の仕事は,大阪中央公会堂などが残っています。加島銀行の店舗も残っておりまして星野行則が建築主。つまり六つ上の星野は頭の上がらない建築主。恐らく星野に引っ張られた部分が多かったのではないかと思います。
 建築家の地位を守るため報酬基準や建築基準法のベースをつくる活動をしております。1917年に関西建築協会(後の日本建築協会)を立ち上げる。’20年には建築家としては大変有名で,「都市計画家」というふうな呼ばれ方をするときもあります。
 建築の枠をだんだん外れ,46歳で大阪工業会の理事長,現在の常翔学園,大阪工業大学を立ち上げて初代の校長。大阪RCを設立したのも,みなこれ1922年です。’23年大阪信用金庫の理事長に。’30年金沢市長になります。’40年には大阪商工会議所の会頭となる。建築から社会改革論者,行政のトップとして実践,片岡の人生は桂馬飛びしてまいります。
 やはり片岡安も時代のテーマの中にいました。社会や都市の改革で,星野よりもう少し具体的にいろんな法整備に携わっています。社会活動的なことに大変重きを置き,片岡安にとっての「人の集まり」というのは,友好のサロンではなくて,「事を動かすために,目的達成のためにあるプラットフォーム」だと思っていたのではないかと思います。
 1920年代に星野行則,片岡安というのは大阪RCをつくったわけですが,彼らのビジョンと行動は大阪RCの理想の背骨をつくったと思っております。課題を解決するスキームづくり,次世代の人材を育てる熱意。社会に対する使命感。2020年にわれわれ大阪RCは,「クラブビジョン」をつくりました。
「会員はそれぞれの自発性と多様性を尊重し,互いに手を取り合い,自己研鑽と奉仕活動を通じて,次の世代と共にクラブの活性化と持続可能な社会の実現を目指します」
確実に精神が受け継がれていると私は感じております。
(スライドとともに)