1969年新潟県生まれ。早稲田大学第一文学部を経て英国マンチェスター大学大学院で学ぶ。’97年サントリーミュージアム[天保山]にて学芸員の職に就き,2010年の休館まで,主に近現代のデザイン・建築分野の展覧会企画事業を担当。「純粋なる形象 ― ディーター・ラムスの時代」展では,竹尾賞審査員賞,ニューヨークADC金賞受賞。’12年大阪市立近代美術館建設準備室に移籍。’20年より現職。
皆様のご支援がありまして,大阪中之島美術館はようやく今年2月に開館することができました。構想から40年という非常に長い期間ではございましたが,その40年間は決して無駄ではなかったと,開館してみて改めて実感しております。大阪というとやっぱり「食」や「商売」のイメージがある都市ですが,実は大阪の文化力というのは慎ましくも非常に強いものがあって,それが日本全国,あるいは世界にまで影響を与えているということを,本日はご紹介させていただきます。
1925年当時,大阪市の人口は200万人を超えて日本一の都市となりました。「大大阪時代」です。小出楢重はその年,中之島の風景を描きました。小出は今の島之内1丁目あたりの膏薬屋の家に生まれました。小さい頃から非常に絵が上手で,お父様も島之内らしく粋な方で,いろいろなものを収集されたり,書などをたしなまれたりして,小出はそうした大阪の「粋の文化」の中で育ちました。
小出は東京美術学校に行くことが許され,大阪に戻って絵を描きます。なかなか認められなかったのですが,それでも彼の絵を認めた人は大阪にもいて,様々なパトロンに支えられて徐々に名を上げていきました。工業都市になっていった頃の大阪を描いた彼の絵は,家屋やトタン屋根などの暗い色に明るい色が載っていて,大阪の陽気さと,どんよりとした都市の風景が非常にマッチした構成になっています。
もう一人,当時の大阪出身の画家といえば,佐伯祐三です。佐伯は中津のお寺さんの子で,彼も東京美術学校に行って,その後パリに渡ります。体調を崩して一度帰国しますが,再びパリに行って絵を描き続け,そしてパリで亡くなってしまいます。
彼は来る日も来る日も,雨の中,寒い中で,絵を描き続けてさらに体調を崩したといわれています。大阪中之島美術館でもシンボルの作品として取り扱っているのが,’28年の「郵便配達夫」です。もう外で絵を描けなくなった佐伯が,たまたま郵便を届けにきた郵便配達夫の方にモデルになってくれとお願いして描いた作品です。生前は認められなかった佐伯ですが,山本發次郎が彼の画力を認め,そのほとんどの作品をコレクションしました。そのコレクションの半数は戦災で焼失してしまうのですが,残った作品が大阪中之島美術館に寄贈されました。
とはいえ,大阪は日本画の方が強い土地柄です。美術学校がなく,西洋画を学ぶことが難しかったということもありました。
池田遙邨の「雪の大阪」という作品をご覧ください。’28年の作品で,大阪に珍しく大雪が降った日を切り取った日本画です。今にも人々が話し出しそうな,大阪らしいユーモラスな表現が見えます。ただ美しいという以上のストーリーが含まれ,大大阪時代の大阪の様子を知るという意味でも非常に重要な絵画になっています。天守閣が再建される前の大阪城や,戦災で失われてしまった大阪城の伏見櫓が描かれているのを発見することができ,非常に楽しい作品です。非常に写実的な,洋画的な表現も含まれているのですが,全体的には非常に丹精で静かで落ち着いたものとなっており,大阪が非常に上品で粋で,そしてシュッとしているところが好まれた土地だったこともおわかりいただけると思います。
私が好きなものに,小林柯白の「道頓堀の夜」という’21年の作品があります。芝居茶屋の窓と道頓堀の川に映る灯りがご覧になっていただけると思います。柯白は洋画の素質もあり,写実的な表現を日本画に持ち込み,日本画の上品さを保っています。当時,日本画の世界では洋画的な表現というのはあまり好まれなかったのですが,柯白の実力に対しては,皆さん,すばらしいと言って受け入れました。
もう一つ特徴的なのは,描かないことによって非常に雄弁にものを語るという,いかにも大阪的だなと思う表現です。例えば,芝居茶屋ですので芸者さんやお客さんの姿を描くこともできるのですが,それを描かないことによって,中でどういうことが起きているのか,見る方の想像力にお任せすることを可能にしています。
大阪中之島美術館の近くに,「グタイピナコテカ」という展示施設の跡があります。「具体美術協会」が戦後に開設したもので,そのこともあり,大阪中之島美術館は具体美術協会の作品の継承に努めていきたいと考えています。具体美術協会を創設した吉原治良さんという方の非常に強いリーダーシップのもとに若い芸術家が集まりました。当時の日本の最先端をいく前衛的な美術集団でした。集団といいましても,皆同じ方向を向いて同じことをするということではなくて,それぞれが個性,独自性というものをとにかく磨いていくという意味で集まったのです。
芸術っぽく見えなくてもいい,美術として定義されなくてもいい,それでも何か新しいこと,何か独自のことをやるということがモットーでした。泥にまみれたり,襖を破ったりとした芸術活動が現在では世界中で評価されています。
’70年の大阪万博で具体美術協会は「具体美術まつり」というものを披露しました。非常に華やかなもので,’70年万博では最新のテクノロジーだけではなく,こうした最新の文化芸術でも一緒に盛り上げていこうという力が大阪にありました。そして2025年の大阪・関西万博に向かって,大阪ロータリークラブの皆様にはぜひ次の大阪の文化力のためにご支援,ご協力をいただければと思っています。
(スライドとともに)