1980年東京都生まれ。2002年北海道大学文学部卒業,’08年九州大学大学院人文科学府博士後期課程単位取得退学,博士(文学)。奈良女子大学准教授を経て’21年4月から現職。専門は東アジア古代史。著書に『古代アジア世界における対外交渉と仏教』(山川出版社)『古代日中関係史』(中央公論新社)など。’21年,考古学等の分野の優れた研究者に贈られる第33回浜田青陵賞を受賞。
大阪ロータリークラブのお話を引き受けたときには思ってもいなかったことが,今,世界で起こっています。歴史学を研究する者として,特に外交史を研究してきた者として,一体なぜ侵略戦争が起きてしまったのか,歴史学に戦争を止める力はなかったのかを考えると,一体何が歴史学には足りなかったのか,これからどう学んで歩んでいくべきかということを日々自省しながら過ごしています。ロータリークラブの皆さんが誠実な歴史観を培っていかれるその一助となればと思いながら,本日はお話しいたします。
プーチン氏の今回の判断は,歴史修正主義の産物と考えてよいと思います。歴史修正主義に左右される外交,またその外交の失敗としての戦争というものをわれわれはあまた知っています。エリートたる者は,できるだけ誠実な歴史観というものを養わなければなりません。そうでなければこれほどの大惨事が起こるということを改めて痛感させられました。
Amazonで「外交」「歴史」を検索すると,2,000件以上の書籍がヒットします。しかしこれらの書籍でいうところの「外交」の意味は一致していません。それは外務省に当たる言葉が各国で異なっていることとも関わります。外交を主導する機関の名称すら一致しておらず,最近の日本の外交を見ていても一体誰が主導しているのかすらわかりません。外交とは実はとても曖昧模糊としたものであるということをお伝えしたいわけです。
そもそも外交は「Diplomacy」の英訳と辞書に載っていますが,「Diploma」とは,古代ローマ帝国で,二重の金属板に捺印され,折りたたまれて縫い合わされた金属旅券のことを指しました。そこから特権の付与や外部との共同体との取り決めを記した公文書を意味することになり,やがてフランス語で外交,外交官へとさらに意味が広がりました。
今,私たちは「新外交」の時代を生きています。第1次世界大戦前は,君主同士が勝手に外交を行い,一般庶民はその内容を知りませんでした。君主が主導し,君主と周辺が情報共有していたのが「旧外交」の時代です。
その秘密外交の結果として起こった第1次世界大戦が未曾有の惨事をもたらしました。秘密外交が完全に否定され,外交は民主的な統制を受けなければならないという考えが初めて誕生します。それはとても誠実なことであったのかもしれません。ただし,現在の情勢を見ていますと,様々な不正確な情報に基づいて世論が揺れるたびに,外交も大きな影響を受けていると皆さんも実感されているところではないかと思います。
もう一つ,近代外交では,国家対国家の関係は対等でならなければならないという主張が生まれました。旧外交の時代には国家間の関係は対等でなくてもよかったのです。
イギリスの外交官として江戸時代末期に来日しているドイツ系イギリス人のアーネスト・サトウは1917年,「外交とは,独立国政府間の公式関係における,知性と機転の応用である。より簡潔にいえば,平和的手段による諸国間の実務の行動である」と記した著書を出します。
福沢諭吉も「学問のすゝめ」の中で,「日本人も英国人も等しく天地の間の人なれば,互いにその権義を妨ぐるの理なし。(中略)国と国とは同等なれども,国中の人民に独立の気力なきときは,一国独立の権義を伸ぶること能わず」と説きます。開国したばかりの日本にとって,国と国とは同等でなければならないと福沢が主張した理由は,明治初期に日本が置かれた極めて困難な国際状況を考えれば,容易に推測できます。
さて,隋王朝の「隋書」に,倭国が派遣した遣隋使が煬帝の怒りを買ったとの有名な一文があります。「日出処(ひいずるところ)天子致書日没処天子(日出処の天子書を日没する処の天子に致す)」です。「日出処」はライジングサンの日本であり,「日没処」は黄昏の隋となります。戦前の理解では,「天子」を両方使っているのだから,両国は対等な立場であることになりますが,古代の文献を読み解くと,対等外交ではなく,隋の皇帝に適うように配慮した朝貢だったと考えられます。
では遣隋使の「対等外交説」はいつから始まったのでしょうか。1882年の教科書では,遣隋使派遣のことを,わが国の文明開化であるとしています。その後の教科書にも対等な外交であったとの表現はありませんでしたが,1934年発行の国定教科書で,悪者の隋に対してわが国が対等な使者を派遣したという記述が出てきます。国体観念を強くしていくという政治的な動向と一致したもので,すなわち「対等外交」が必要な時期になり,終戦直前に発行された’43年の教科書でその主張が最も大きく展開されました。
日本政府は’19年のパリ講和会議で,「国家関係は対等であるべきだ」という主張を入れようとしました。それと連動するように,日本が対等外交を初めて行ったのはいつだったのかという説明が,その後の教科書に採用されたのです。独立国家たる日本の最初の「外交」として,遣隋使が教科書に記述され,その認識が戦後長く続いてきたのです。
現在の世界情勢の中で,外交を学ぶ意味が大変大きくなっています。私が専門としているのは古代の外交史ですけれども,古代の外交であるからこそ,社会情勢を自分たちの思う状況に持っていくことが,プーチン氏のように多々あることを考えながら研究を続けています。皆さんにもぜひそういった視点というものを少しでも共有していただけたらと思っています。
(スライドとともに)