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2020年1月31日(金)第4,747回 例会

百舌鳥・古市古墳群と世界遺産を見る・学ぶ・活かす

今 尾  文 昭 氏

関西大学 文学部 非常勤講師
NPO法人東海学センター 理事長
飛鳥学問題作成委員会 代表委員
今 尾  文 昭 

1955年生まれ。同志社大学文学部卒業。’78年奈良県立橿原考古学研究所入所,2008年博士取得(文学)。’11年橿原考古学研究所附属博物館学芸課長,’14年調査課長,’16年定年退職。この間堺女子短期大学,同志社大学非常勤講師,国立歴史民俗博物館共同研究員などを併任。『律令期陵墓の成立と都城』,『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』,『天皇陵古墳を歩く』など著書多数。

 2016年3月に奈良県の橿原考古学研究所を退職しました。奈良県に38年間ほど勤め,ずっと古墳の研究をしていました。昨年(’19年)7月,大阪府堺市の百舌鳥,そして藤井寺市,羽曳野市にまたがる古市,この大きな古墳群が世界遺産の会議で正式登録になり,大阪に世界遺産をという願いが到達しました。「何を見るか,何を学ぶか,どう活かすか」ということをお話しさせていただきます。

どうして「古墳時代」と呼ぶのか?

 時代は大体3世紀後半から7世紀です。3世紀後半は,邪馬台国の卑弥呼が活躍した時代で,その時期から時期の後半以降,日本列島では大きな古墳をつくっていきます。6世紀後半,7世紀には「飛鳥」に都ができて,そしてこの国は「律令国家」になります。官僚が出てきて,位がしっかりしてきて,そして律令(法律)に基づいた時代が律令国家の時代ですけれども,そこに至る300年~400年ぐらいが「古墳時代」です。
 日本列島で人がいつから住んだか。近畿圏では3万年ぐらい前から人の痕跡があったが土器がなかったので「旧石器時代」。その後は「縄文時代」,次に「弥生時代」です。旧石器も縄文も弥生も土器という道具で時代を呼んでいたのに,その次は古墳,お墓で呼ぶ。その次は飛鳥,奈良,平安,鎌倉,室町と,政権の所在地で時代を呼びました。
 どうして「古墳時代」とわざわざお墓で呼ぶのか,表「大型前方後円墳」でベスト50まで並べました。古墳時代にできた墳丘の長さが200mの中期の前方後円墳は24基を数えます。単純に割ったら10年間で2.4基です。
 墳丘の長さが486m,測り方で525mかもしれませんが,現在仁徳天皇陵になっている大山古墳は,大林組の試算では,1日2,000人の作業員で15年8ヵ月という土量計算が出ています。つまり大山古墳1基だけでそれだけ掛かっている。それに続く200mぐらいの古墳も,5世紀代は10年で2.4基作っていた,そういう時代です。
 もうひとつ,1975年に奈良で古墳は5,931基あった。ところが,’98年にこの間に調べた台帳をつくり直したら9,031基。発掘調査をする人も増え,開発も激しくなったことから,地面の下に堀だけ残してあらわれる「埋没古墳」などが出るなどしたのです。さらに発掘調査をすると,全部で20万基ぐらいあるのではないかと思っています。
 お墓は小さいものも大きいものも,もしかしたら毎日毎日つくっていた,この時代が300年以上続いています。どこに生産性があるか,逆にその生産性を担保するのはどういう社会かという問題はあるのですけれども,だからこそ道具や政権所在地で呼ばずに「古墳時代」と呼んでいるのです。古墳はこういうものであるということです。

百舌鳥・古市古墳群の意味

 大阪府堺市に位置する大仙陵古墳(現仁徳陵)。研究者の間では呼び方が分かれています。その南側にあるのが上石津ミサンザイ古墳,現履中陵です。ここは,かつては4㎞四方に100基ほどあったそうです。戦後の開発の中で壊さざるを得なかったものもあり現在は44基ほどが残っています。羽曳野市と藤井寺市にまたがる古市古墳群は,大きいのが420mほどある誉田御廟山古墳,現応神陵で,ここも4㎞四方ほどに何と130基ほどあったそうですが,それが現在46基です。
 いわば現代人の知恵として,もうこれ以上壊さないようにしたいという思いもあって,百舌鳥・古市古墳群が世界遺産登録になった意味があるかなと思っています。
 百舌鳥・古市古墳群もそうですが,大きいだけでなく,小さいのもあります。鍵穴型の前方後円墳,前方部がちょっと短くて帆立貝のような形をしている帆立貝形前方後円墳,円墳,方墳などバラエティーに富んでいます。
 5世紀当時は新羅や百済や高句麗という東アジアの国々すべてが宋という国に使いを出しています。北朝には北魏というまた強い国があり,ある意味で言うとバランス感覚・国際感覚のある中で,倭の王様たちはそういう外交手段をとったのです。
 大山古墳を宮内庁が2018年11月に発掘調査しているところを学会の代表者に対して公開してくれました。宮内庁はどういう理由で掘ったかというと,あくまでもやっぱり陵墓をどう管理していって守っていくかということです。以前からわかっていた円筒埴輪でも,直に見るというのは勉強になります。

百舌鳥・古市古墳群を活かすために

 陵墓と古墳の二面性ですが,もちろん宮内庁の陵墓という側面と文化財としての古墳という側面があります。そこに①学術②信仰③観光④文化⑤教育⑥防災と,大きな古墳ですから様々な意味があります。都市部に残る緑という意味もありますし,それから周濠は灌漑,農業用水に使っている場合もあります。
 例えば問題があります。百舌鳥陵山古墳(現履中天皇陵)の埴輪と大山古墳の円筒埴輪は,出てきた時期が違うのです。百舌鳥陵山古墳は履中天皇ですから仁徳天皇の子どもなのですが,履中天皇のお墓の埴輪,つまり子どものお墓の埴輪のほうが古いのです。まず様々な場で,「知」の共有といいますか,それぞれ尊重しながら落ち着きどころのいいところで活かせていければと思います。
 さらに大山古墳,外堤の部分なら物理的に歩けないことはないと思います。中学生でも年寄りでも歩けたら,古墳のボリューム感,5世紀の先人たちが15年8ヵ月もかかって,またそれを組織したリーダーはこういう形で中国にアピールしたのだということを実感できる機会が設けられたらいいと思っています。
 (スライドとともに)