1959年生まれ。私立PL学園高等学校卒業,’84年ワシントン大学卒業。同年ミズノ(株)入社。スポーツ事業部 事業部長等を経て,2004年取締役,’13年常務取締役に就任し,コーポレートコミュニケーション部及びコンペティションスポーツ事業部担当。’11年からPL学園硬式野球部OB会会長,’19年1月後任の桑田真澄氏にバトンタッチ。
昔の野球の裏話と言いましても暴露話をするつもりはありません。私の人生の中に「野球のご縁」がたくさんありましたので,皆様にご披露できればと思っております。
1939年,父親(鶴岡一人)は法政大学の花形選手として南海ホークスに入団。当時大学から直接プロ野球に入るということはなかったそうで,父親はその第1号です。父親が「外国人選手にしっかり働いてもらうためには,家族の面倒を見たらなあかん。特にお母ちゃんを」と言っていたのを覚えています。
私はPL学園野球部OBで,OB会長を8年ほど務め今年の1月に桑田君に会長職を譲りました。母校は休部状態ですがマスターズ甲子園で10年振りに甲子園に戻ってきます。
本題に入らせていただきます。写真は’31年です。父親は広島商業時代,春の選抜で優勝し,ご褒美で約3ヵ月かけてアメリカへ行きました。父親にとってこのアメリカ遠征が多方面に影響します。私にも「ご縁」というところにかかってきます。
父親がアメリカ旅行でカリフォルニアをずっと南下しているときに,サンタマリアという所で試合をしました。この試合を見に来ていた日系2世の方がいらっしゃいました。大阪球場は’50年に完成するのですが,球場を建てたくても日本には鉄がない。どうしたらその鉄がもらえるか。GHQにいたウィリアム・フレデリック・マーカット少将の通訳をサンタマリアで野球を見ていた日系人の方がされていたのです。「あのときの鶴岡さんですか」ということで,うまく事が運んだと聞いています。
私は高校卒業後すぐに,サンタマリアのアラン・ハンコック・カレッジに進学。ランディ・ベンチュラという同級生と仲良くなります。よく食事に誘ってくれました。
ベンチュラには小学生の弟がいて「ミスター鶴岡,弟に野球を教えてくれないか」となり,日本の練習を一生懸命教えました。ミズノ入社4年後の’88年のソウルオリンピックのときに,全米野球チームの納品に行きました。そのときに「ミスター鶴岡」と,ミスターをつけてくれる人がいたのです。私が何ですかと問いかけると「イエッサー」と答えてくれるのです。なかなかこんなことはないです。彼は,「覚えていますか,私のことを?」と言いました。彼はスーパースターで大学時代に58試合連続ヒットを打ち,’88年の全米アマチュアMVPを獲得するすごい選手でした。「ミスター鶴岡。私はランディ・ベンチュラの弟のロビンです」と。ロビンはその後ホワイトソックスに入り,メッツ,ヤンキース,ドジャースで活躍。ホワイトソックスの監督まで歴任をしました。間違いなく,私が育てた大リーガー第1号と言っても過言ではないと思います。
私も18歳,19歳の頃はプロ野球選手になると思っていました。でも江川卓さんとの出会いで変わりました。ハワイ遠征で南カリフォルニア大学(USC)の練習生だった江川卓さんと出会い,江川さんとキャッチボールをするようになりました。距離は50~60m,もっとあるかもしれませんが,江川さんのボールは,私の身長より高い球がないのです。私も一生懸命投げますが,ほぼ40度の角度で投げないと届かない。次元の違いに「プロ野球はすごいところだ」と気づかされました。
留学中にミズノのワークショップの運転手兼通訳のアルバイトを1ヵ月半させていただいたこともあります。キャンピングカーを改造して,車内にミシンや皮を積み込み大リーグのキャンプ地を回って,選手好みのグラブをその場で作り上げる。そういうサービスでミズノが大リーグに乗り込んだのが’80年です。
ワークショップはアリゾナからフロリダまで5日かけて行きますが,当時ミズノと販売代理店契約をしていた会社のジム・ダービーさんと一緒に移動しました。道中,ダービーさんのカリフォルニア大学(UC)バークレー校時代の野球部監督がお住まいで泊めてもらいました。恩師はジャッキー・ジェンセンという方で,ヤンキースなどで活躍され,現役引退後UCバークレー校の監督をされていました。ジェンセンさんは「僕もアメリカのオールスターチームで日本に行ったことがある」と写真を見せてくれました。ジェンセンが肩に手をかけている人物がいて,この人物が私の父親でした。「信じてもらえないと思いますが,ジェンセンさん,実はこれ私の父親です」と明かしました。そこからずっと野球の話をしていました。
アルバイトが終わり,その秋から私はシアトルにあるワシントン大学に編入します。ワシントン大学は野球では全米で50番前後。普段は観客が少ないのですが1度だけ,立ち見が出るぐらい人が集まりました。対戦相手はスタンフォード大学。ジョン・エルウェイという選手が在籍をしていました。彼はフットボールで大活躍し,その後,NFLのデンバー・ブロンコスのスーパースター,クオーターバックになりました。私がアメリカミズノで,野球とフットボールを担当した時に彼らとの関係で助けてもらえた,と思っています。
最後に少しだけ母親の話をしたいと思います。母親は宝塚歌劇団29期生で’39年音楽学校入学。’42年に初舞台。草間かほる,の芸名で20年近く在籍していました。母親の父は,’00年当初,京都でユニフォームのマーク屋さんを営んでおりました。最初に申し上げた「ご縁」というところで,母方はスポーツのユニフォームのマークをつけるなど,スポーツ屋を営んでいて,私が今スポーツの会社で仕事をさせていただいております。これこそ最大の「ご縁」ではなかったのかなと思っております。
(スライドとともに)