1957年生まれ。’81年3月早稲田大学政治経済学部経済学科卒業,同年4月(株)三和銀行(現 三菱東京UFJ銀行)入行。大阪,東京,ニューヨークでの勤務を経て’90年4月に同行を退行し,(株)旭屋書店入社。’96年11月より同社代表取締役社長。
当クラブ入会1992年8月。IAC・青少年奉仕(理事)・R情報・増強・趣味の会など数々の委員長を務め,2005年・’14年2度のS.A.A.,1999年クラブ幹事。米山功労者・PHF。
また,2660地区でも2002~07年度まで情報・IT及び情報・広報委員(’03~04年度は情報・広報委員長),’05~08年2004大阪国際大会記念事業委員会委員を務める。
本年度会長を仰せつかりました早嶋茂でございます。光栄であるという思いがある一方で,重責を担い身の引き締まる思いでおります。
さて,本年度のRI会長イアン・ライズリーさんのテーマは,“ROTARY:MAKING A DIFFERENCE”,日本語では「ロータリー:変化をもたらす」となっています。
ロータリーアン,ロータリークラブ,地区,国,地域それぞれの特性を活かして積極的に奉仕活動に参加することが,地域社会に変化をもたらし続けるとおっしゃっています。
それを受けた本年度の2660地区片山勉ガバナーのスローガンは,「個性を活かし,参加しよう」とされました。ロータリーの基本理念と奉仕活動の充実,実践を表しておられます。
片山ガバナーは本年度の具体的な目標として,次の5つを挙げておられます。
1つ,基本理念と奉仕活動の実践。2つ目が,戦略計画,将来構想の推進。3つ目が,公益財団法人ロータリー米山記念奨学会設立50周年。4つ目が,ポリオ撲滅。5つ目が,公共イメージ向上。以上の5つを具体的目標として挙げておられます。
7月21日に片山ガバナーは当クラブを公式訪問されます。最初のガバナー公式訪問クラブとして当クラブを選ばれました。どうぞ皆様,大勢のご出席をお願いいたします。
それを受けて本年度の私の方針は,「触れ合う,繋(つな)がるロータリー」といたしました。
RIは,My RotaryなどのIT化を推進しています。ロータリーは,200を超える国と地域に120万人を超える組織を抱えています。そういった大組織のコミュニケーションを図るためには,便利で欠くことのできないツールであり,IT化が重要であるのは,今さら申し上げるまでもありません。しかし,そういう時代だからこそ,face to faceのコミュニケーションがさらに大事になると私は考えております。
大阪RCの会員数は現在266名です。face to faceのコミュニケーションが可能な範囲に収まっていると考えています。例会で日常の安否や様子を問い,顔を見て安心し,バーカウンターで話をすることなども含めて,直接親睦を図っていただきたいのです。
本年度は例年にはない委員会が2つあります。1つはIM6組実行委員会であります。11年ぶりに当大阪RCがホストを務めます。現在2660地区には8つのIMの組がありますが,来年度,当クラブで言えば森下俊三会長の年度から6つに再編されます。当クラブは引き続き6組に所属いたしますが,現行の編成での6組のロータリーデーは本年度で最後となります。来年3月17日(土)に大阪国際会議場にて開催いたします。多数の会員のご協力とご出席をお願いいたします。
もう1つは,100周年記念事業準備委員会です。大阪RCは,1922(大正11)年11月17日に創立されました。5年後の2022年に創立100周年を迎えます。90周年のときには,記念事業の1つとして,今年度も継続している「宮古・大阪みおつくし奨学金」を設立いたしました。これは,100周年に向け10年間の継続事業となっています。100周年記念としてどのような事業を行うのか,これから検討していただくことになっています。
私は昭和32年,1957年の1月に大阪に生まれました。今年で還暦になります。高校まで大阪で過ごし,大学は早稲田に通っておりました。卒業後,三和銀行,今の三菱東京UFJ銀行に入り,大阪,東京,ニューヨークで勤務をした後,’90年に父が経営する旭屋書店に入りました。旭屋書店は終戦後の’46年に,私の祖父が創業をいたしました。
大阪RCとの関わりは,’92年に三和銀行の頭取を務められた川勝堅二,錢高一善両氏のご推薦で入会をいたしました。今から25年前で,35歳でありました。
来年は2018年ですから,明治維新150年となります。一般に断髪令と言われているものが出たのが,1871(明治4)年です。大阪RCのチャーターメンバーのお一人で,ロータリーでもいろいろな要職を歴任された平生釟三郎さんがお生まれになったのは,1866(慶応2)年,要するに江戸時代であります。ですから,平生さんの周りには髷を結った人がいたということになります。大阪RCのチャーターメンバーには,平生さんより若い方もたくさんおられました。しかし,それでもお父さんは髷を結っていたという世代の人たちであったわけです。
大阪RCが創立された1922年当時は,第一次世界大戦の10年前に日露戦争,その10年前に日清戦争と,10年おきに日本という国がなくなってしまうかもしれないという国の命運をかける戦争を繰り返し行ってきて,やっと落ち着いたと思ったであろう時代です。
第一次大戦の戦争特需が一段落して,戦後不況が訪れるとか,シベリア出兵の失敗があったとか,混乱はあったものの全体を見れば繁栄の時代であっただろうと思います。創立の翌年には関東大震災が起こり,その後大正天皇が崩御され,昭和に入ると金融恐慌,さらには戦争と,災難や混乱が待ち受けているとは予想だにしていなかったと思います。
1940(昭和15)年に大阪RCは国際ロータリーを脱退して「大阪金曜会」なるものをつくりました。大阪金曜会は9年間活動した後,’49年(昭和24年)に国際ロータリーに復帰いたします。しかし,大阪金曜会の会員全員がすんなりと大阪RCに復帰できたわけではありません。4つの基準が設けられました。
1つ目は,職業分類の明確なものを選ぶこと。2つ目は,規定以上の出席率を保持してきたもの。(これはどうも金曜会の内規で50%ラインというのが定められていたようで,それをひとつの目安にしたようです)。3つ目は,特別会員をできるだけ少なくすること。4つ目が,パージに関係のないものを選ぶということ(パージという言葉を耳にすることは最近まずありません。それだけに時代を感じさせる基準だということであります)。
その結果,大阪金曜会の会員は98名おられたのですが,国際ロータリーに復帰したときの大阪RCチャーターメンバーとなったのは,68名でした。金曜会メンバーのうち30名,割合にすると3割の人は大阪ロータリーへの入会が認められなかったわけです。入会できないと通告されたほうも辛かったと思いますが,「あなたは入会できませんよ」と通告したほうも辛かったはずです。苦しい選択を経ての再出発であったわけであります。
われわれは,ともすると現在を基準にして物事を考えがちであります。大阪RCも今の姿が初めから存在していたかのように思いがちでありますが,決してそうではなくて,山あり谷ありの歴史であったということであります。
最近,神戸RCの元会長,また2680地区のガバナーをお務めになった加藤隆久さんのお話を伺う機会がありました。加藤さんは,生田神社の名誉宮司さんであります。22年前の阪神淡路大震災のときの神戸RCの会長でした。当時は名誉宮司ではなく生田神社の宮司をお務めだったのですが,生田神社も本殿は倒壊を免れましたが,拝殿は倒壊して,加藤さんは大変ご苦労されました。
しかし,それどころではない,神戸RCには代々引き継がれてきた4つの宝があると。4つは何かと言いますと,国際ロータリーの認証状,ポール・ハリスが神戸に来たときの写真,ポール・ハリスの生まれた家の絵,それとポール・ハリスが佩用(はいよう)していた襟章,今皆さんが襟につけておられるこのエンブレムです。それが失われては大変だと事務局のあったホテルに飛んで行って必死になって探し,無事に見つかってホッとしたとおっしゃっておりました。その4つの宝は毎年度,引き継ぎ式なるものを行って引き継がれているそうであります。ちなみに大阪RCで年度が変わるときに形あるもので引き継ぐのは,この点鐘用の木槌1本だけです。加藤さんがおっしゃっている4つの宝というのは,もちろん象徴的な意味合いだと思います。しかし,私はその時,大阪RCは先人から一体何を受け継いできて,将来に何を引き継がねばならないのか,何を引き継ごうとしているのかという,根源的な問いをはからずも加藤さんから突きつけられた思いがいたしました。
先人たちから受け継ぎ,引き継いでいくべきものは,新しいものに積極的に取り組む進取の心構えと,困難に出会ってもへこたれない精神なのだと私は思います。
今年度の方針は,「触れ合う,繋がるロータリー」と最初に申し上げました。それは,同じ時期にロータリークラブに在籍している人と繋がっているという横の繋がりはもちろんでありますが,過去と未来,縦でも繋がっているということです。また,奉仕活動を通じて,地域社会やロータリー以外の人,あるいは団体とも触れ合い,繋がるということを意味しています。その延長線上にRIの会長のテーマ,あるいは片山ガバナーのスローガンがあると私は考えております。
そういったことを意識して,また,face to faceのコミュニケーションを意識して,明るく楽しいロータリーライフを皆様に過ごしていただけるよう,この1年会長を務めるつもりでおります。