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2015年10月2日(金)第4,551回 例会

米山月間に因んで

若 林  紀 男 氏

米山記念奨学会 常務理事
RI2660 地区 パストガバナー
若 林  紀 男 

1941年生まれ。慶應義塾大学商学部卒業。’82年大阪東RC入会。’90~91年度理事・幹事,’99~2000年度会長。’01年~02年度地区リーダーシッププラン推進委員。’03~04年度2660地区ガバナー。

 今月は米山月間でして,米山梅吉を縦軸に,ロータリーが日本に誕生した経緯や人物を横軸に,お話をさせていただきます。

米山梅吉という人物

 1868(明治元)年,大和国高取藩の藩士,和田竹造,静岡三島大社の神官,日比谷右京の娘,うたの間に,梅吉は東京で生まれました。

 4歳で父が他界し三島に移り住みます。村の素封家の米山家から養子にと求められました。ただ,籍は入れていませんでした。

 15歳のとき,出奔し上京。東京で5年間,様々な学校で学び,19歳で三島に戻り,正式に入籍し,米山家の養嗣子となります。

 彼の次のステップは米国留学でした。20歳から約8年間,彼はオハイオ州やニューヨーク州の大学で法学を学びます。

 帰国し米山家の一人娘,はると結婚。三井銀行に入行しますが,手助けをしたのは藤田四郎でした。

 藤田は農商務省の次官になり,後に貴族院議員。井上馨外相の娘婿でもありました。

 入行から20年後,三井銀行の常務取締役となった梅吉は,政府特派の団の一員として渡米します。

 滞米中の1917年末,ダラスにいた福島喜三次と知り合います。

 福島は梅吉より13歳若く,佐賀の出身。東京高商(現・一橋大)を卒業後,三井物産に入社,米国に綿花部門担当として駐在します。

 ダラス駐在時の’17年,ダラスRCから入会の誘いを受け,彼はロータリアンになります。このロータリアンになりたての福島から梅吉はRCの情報を得たのでしょう。

日本にRC誕生

 米山と福島はやがて帰国。福島はロータリー仲間から信頼され,当時のダラスの会長は,シカゴの国際ロータリー本部に彼を賛辞するメッセージを送ります。

 福島は本部で,日本にRCを設立する特別代表の委嘱を受けます。’20年1月に彼は帰国。梅吉とともに日本のロータリーの誕生のため,東奔西走します。

 同年10月20日,東京RCが誕生します。初代会長は米山梅吉。その後,梅吉は「英米訪問日本実業団」に加わり,そこには,大阪RCの初代会長になる星野行則が参加していました。

 長期間の視察中,星野は梅吉からRCのレクチャーを受けたのだと思います。

 星野は米国にいる間に,シカゴの本部を訪ね,大阪RC設立の承認を取り付けます。帰国して,大阪に転勤していた福島とともに大阪RCの誕生に力を尽くしました。

 ’22年,大阪RCが誕生。星野が初代会長で,福島が幹事です。

 星野は’51年~52年度のガバナーを務めています。日本の地区が1地区にまとめられていた最後の年で,国際ロータリーからは「第70区」と言われていました。

 ガバナーになった星野は,北海道から鹿児島まで70余のクラブを公式訪問します。当時の交通事情を考えると,すさまじいエネルギーです。しかもその時,星野は81歳。こういうすごい人がいたのです。星野は’60年に90歳で亡くなります。

 戦争で日本は国際ロータリーを脱退。梅吉は,一日も早い復帰を祈って待ちます。’49年,復帰を認められますが,その3年前に梅吉は78歳の生涯を終えていました。福島も同年,鬼籍に入ります。

受け継がれた遺志

 梅吉は,経済人になってからは,自身の経験からも若い人の教育を重要と考え,志の高い若人に経済支援を続けていました。

 ’52年に東京RCは梅吉の遺徳をしのび,奨学事業の構想を立案して実現します。事業は全国に広がり,オールジャパンの取り組みになりました。

 私は浄財で遂行される事業は,2つのことを守らねばならないと思っております。1つは,使途,金の流れが透明でなければなりません。もう1つは,どんな成果を生んでいるのかを,明示しなければなりません。

 米山奨学会の考え方は,政治体制や宗教,民族の問題を個人に置き換えての判断はしません。国際理解と親善,世界平和に寄与する人材育成に,奨学金が使われています。

 成果の一端をご紹介しましょう。

 1人は中国の弁護士です。東大大学院時代に奨学生になりました。帰国後,中国学友会を立ち上げました。設立総会で会長に指名され,挨拶で中国の諺を引用して話をしました。「一滴の水でも受けた恩義は湧き水として報いるべき。恩返しは,できることから始めよう。米山への寄付,両国の理解と親善の橋渡し役を担おう」

 2人目は韓国の人。筑波大大学院時代,奨学援助を受けました。彼は帰国して教育界に奉職し,大学教授のときに国政に転じます。2008年~11年,駐日大韓民国全権特命大使として日本に赴任します。

 後に彼は思い出をこう話しています。

 「私は日本で米山奨学生となり,カウンセラーの先生に大変お世話になりました。大使として日本に着任してすぐ,療養中の先生を見舞いました。また,大使招待の晩餐会では私の横に座っていただき,楽しい時を過ごしました。しかし,先生は,私の在任中に逝ってしまわれました。私は先生の亡骸に『今,日本と韓国は近くて遠い国になっています。私は,近くて近い国になるよう一生懸命頑張ります』と誓いました」

 奨学事業は,大変時間のかかるものですが,50年,60年が経ち,やっと少しずつ実を結んできているようです。

 (敬称略)