1949年大阪生まれ。大阪天満宮文化研究所員、追手門学院客員教授、NPO法人上方落語支援の会理事、天満天神繁昌亭大賞選考委員などを兼務。近江地方史および天神信仰史を専攻。主な業績に『本願寺史料集成 元和日記』『大阪天満宮の歴史』『大阪の神さん仏さん』などがある。
私は「天満天神繁昌亭」に深く関わっており,繁昌亭で月に一度,企画で対談をしています。ただ,私はあくまで日本史が専門の研究者です。そこで「上方落語に浮かぶ中之島」というタイトルで,前半で日本史から見た中之島の歴史,後半で中之島が舞台の落語を紹介させていただこうと考えております。
大阪の町は7世紀中ごろに「難波長柄豊碕宮」ができ,非常に古い。京都より古い都なのです。
その歴史のなかで,中之島があらわれるのは17世紀,江戸時代の初めです。大川の運んだ土砂でできた中州が,生活の場になるのに時間がかかったということです。
その時代には豊臣秀吉の大坂城及び城下町に関して「城下町南北構想」というのがあります。
大坂城の上町台地を中心に地盤がしっかりした縦のラインに町づくりを考えました。大坂城の西の上町を南に延伸し,四天王寺の門前町へ。さらに住吉大社の門前町につなぎ,堺の湊まで続きます。堺の湊が大坂城の港になります。
大川の北には御所をつくるはずでした。そのことは,徳川家康の家臣,本多忠勝や,宣教師のルイス・フロイスの史料に記されています。実現せずに,その場所は「天満本願寺」となりました。現在の西本願寺です。
ところが,慶長伏見大地震が起き,堺の湊が壊滅状態になります。
復興も難しく,最初は構想外だった上町台地の西側の湿地帯を開発して港を造らざるを得なくなります。城下町南北構想を東西構想に切り替えたのです。東横堀を大坂城の外堀として掘るのと同時に,その土を湿地帯の埋め立てに使いました。
約400年前の大坂冬の陣の記録に,いまの大阪大学中之島センターのあたりの地名が「五分一」として登場します。ここは戦いにとって重要な場所で,最初,豊臣方が陣を構え,徳川方の石川忠総がここを攻め取ります。史料に日付まで,慶長19(1614)年11月30日と記されています。
私は,中之島が初めて史料に出たこの日を「中之島の日」に,と提唱しています。今秋には,中央公会堂で打ち上げを行います。
「五分一」という地名は,全国にあり年貢率を示します。つまり,中之島は生産の場になっていたということです。
東西構想で整備された船場のすぐ北側にあり,見捨てられた地だったのが生産の場になり,後に,江戸幕府の蔵屋敷を並べる土地を準備できたのです。
天保期(1830年~44年)には,100ぐらいの全国の藩が蔵屋敷を置き,天下の富の7割を集めると言われるようになります。出遅れたのが幸いしたのです。
その後,明治維新で蔵屋敷は明治政府に接収されます。
今度はその広大な跡地に,中央公会堂,市庁新館,日銀大阪支店ができます。これら公共施設は,近代の大阪が発展するきっかけになりました。中之島は,ピンチをチャンスに変えてきたのです。
中之島周辺を舞台にした落語はたくさんあります。まず『船弁慶』を紹介します。
――喜六,清八は女房に内緒で,難波橋上流へ船遊びに。その後,喜六の女房お松も夕涼みに出掛け,偶然に船上の夫を見つける。お松は小舟で漕ぎ寄せ夫をなじり,喜六はお松を川へ突き落とす。幸いにもそこは浅瀬で,立ち上がれば膝下ぐらい。
私は,この最後のシーンに納得がいかず,調べました。俳人の島道素石の著作『大川納涼』(1933年)に,「なんと言っても浪花の納涼は大川であった。天満橋下流難波橋までの中間は,その頃,洲の砂原があって角力や鬼ごっこができたのだ―」とあります。
地図を見ますと,文章にある明治中期の中之島の先端は難波橋のところ。現在は上流の天神橋の先まで延びています。明治初年,中之島は難波橋に先端がかかっていました。砂州ができるということは,落語のように浅瀬になりかけていたという証拠です。
もう1つ,落語の『遊山船』。遊山船は,船遊びの屋形船のことです。
――喜六と清八が難波橋へ夕涼みに。橋の上では,冷やした西瓜などの夜店。川面の遊山船では御大尽が芸妓遊びの音曲を響かせ,並走して飲食物や芸を売る船も数知れず。
雰囲気が現在と全然違います。これこそ水の都やなぁと思うのです。水の都の頃,スクール船がありました。学校が持っていて,追手門学院の小学生が乗って通うのです。
病院船というのもありました。戦前に毎日新聞の外郭団体が持っていました。貧しい地域には病院がなく,行政も手が回らない。そこで,新聞紙面で「いつ,どこの浜に停泊」と告知する。1週間とか長いときは1ヵ月ぐらいいました。
大阪が水の都の時代の話です。私は,今の状態は,水の都と違うんじゃないかと思います。東横堀を船で通るたびに,高速道路の橋脚を見て,何と無粋なことをするんやと思います。
大急ぎでたくさんのお話しをいたしました。どうも,ありがとうございました。
(スライドとともに)