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2015年8月7日(金)第4,545回 例会

歌舞伎よもやま話Ⅱ~襲名話をまじえて~

中 村  鴈治郎 君(文 化)

会 員 中 村  鴈治郎  (文 化)

2015年正月松竹座に於いて,四代目中村鴈治郎を襲名する。現在も全国で襲名披露の公演中。当クラブ入会:’06年7月28日

 襲名というのは皆さんどういうふうに思っていらっしゃるでしょうか。単純に言って,名前を継ぐことで役者が大きくなる,変わっていくということです。襲名公演は,いつもと違う上の方々が相手してくださることがあります。それによって自分が高まっていくのです。ですから,大きい役者になるチャンスを与えられたと考えていただけたらいいと思います。私も鴈治郎という名前を襲名させていただいていますが,前の鴈治郎のイメージが付いて回るのは間違いありません。でも,これを自分なりに消化して,皆さんが見てくださったとき,「ああ,鴈治郎になったんだな」となってくると思うのです。

女房, 子供を捨てて

 家系図を見ていただくとわかるのですが,三代目中村翫雀というのが,中村鴈治郎家,私の家のもとです。うちは明治になってから役者を始めた家です。江戸時代から脈々と,とよく言われますが,そうではありません。

 江戸時代,大坂の花街に「扇屋」という大きな女郎屋があり,私の曽祖父である三代目翫雀はそこの養子になります。役者は芸を売るという実体のないものだったので,身分は士農工商の下でした。このため,婿養子に入るとき,身分が釣り合わないので役者をやめてくれと言われるのです。その後,できた子供が初代鴈治郎です。

 ところが,三代目翫雀は役者を続けたいために,女房,子供を置いて江戸へ行くのです。明治に変わって,女郎屋が廃止になり,大店を継ぐはずだった初代鴈治郎は路頭に迷い,父親のことを恨んで育つのです。

 ところが縁あって,舞のお師匠さんに拾われて稽古をしました。そのうちに血が騒いだのでしょう。役者をやりたいと飛び込んだのが實川延若家です。そのとき初めて自分の父親が役者だということを知りました。

 初代鴈治郎は實川鴈二郎の名前で上方で売れてきて,噂を聞いた三代目翫雀が上方まで会いに来るのです。自分の息子が役者をやっているということで。そのとき,中村翫雀は實川鴈二郎に自分の名前を継いでくれと言ったのですが,實川鴈二郎は「鴈二郎という名前でずっと一生通す」と断ったのが,中村鴈治郎の始まりです。

継がせる気はなく

 この中村鴈治郎という名前は一代で大きい名前になりました。初代鴈治郎は「自分は一代,翫雀という名前も継がない」と言い切った人ですから,鴈治郎という名前も継がせる気がなかったらしいのです。家系図の初代鴈治郎の下を見ると,子供がたくさんいます。実は私の祖父,二代目鴈治郎は三男です。次男は早死にしました。なぜ長男が継がなかったかというと,初代鴈治郎が継がせる気がなかったのです。長男もその気がなかったのです。

 このため,初代鴈治郎が昭和10年に亡くなってから名前が宙に浮きました。それを私の祖父の二代目鴈治郎が昭和22年に継ぎます。その前の昭和16年には扇雀から中村翫雀という名前を継いでいます。やはり鴈治郎という名前は大きく,すぐには継げず,ワンクッション置きたかったのでしょう。これによって初めて中村翫雀という名前もうちの家系の中に入ってくるのです。ですから,途切れていたかもしれない鴈治郎という名前が脈々と続いたのは,私の祖父のお陰です。

 ただ,この祖父も波乱万丈で,実は歌舞伎をやめかけているのです。鴈治郎というと二代目鴈治郎,祖父を思い浮かべる方が多いと思います。それはなぜかというと映画です。祖父が歌舞伎を背負っている松竹と契約を切って,大映に行ったのです。当時,映画という新しい娯楽のために芝居がだめになった時代でした。役者は歌舞伎をやりながら映画に出ていましたが,歌舞伎には籍を置いていました。祖父はそれを全部切って,大映に中村鴈治郎という名前を持って行ったのです。ことによると中村鴈治郎という名前が歌舞伎に残ってなかったかもしれない。映画で終わっていたかもしれない。それが,祖父が晩年,歌舞伎に戻ってきたので残ったのです。

生涯, 鴈治郎で

 三代目鴈治郎は父です。でも鴈治郎というイメージが皆さんにあるかというと,もしかしたらないんですね。どんなに大きな名前でも,そのときそのときの役者で印象は随分変わります。三代目鴈治郎というのが思い浮かばないぐらい,坂田藤十郎―中村扇雀という名前が父にとって大きな名前でした。

 父は70歳のときに坂田藤十郎を継いだのですが,完全にうちの屋号の成駒家から家出をした状態です。これは大変な勇気だと思います。歌舞伎の創成期,江戸に市川団十郎という役者が,関西には坂田藤十郎という名優が出ました。これは偶然です。お互い何のつながりもありません。ただ,市川団十郎は脈々と続いているのですが,坂田藤十郎は続かなかった。これは初代中村鴈治郎と同じ考え方で,坂田藤十郎という名前を後に継がせる気がなかったのです。

 父の考えは,市川団十郎,坂田藤十郎は歌舞伎の両輪で,片方がなくなったのはよくないというので,坂田藤十郎をどうしても世に出したかったのだと思います。そうすると,私はこの後に坂田藤十郎という名前を継ぐのかということになってきますが,私は全然その気がありません。私は成駒家にとって中村鴈治郎が一番上の名前だと思っていますので,生涯,鴈治郎でいたいと思っています。

 歌舞伎の興業を松竹が受け持つようになって120年ですが,その松竹と一緒に中村鴈治郎が育ちました。お陰で関西で歌舞伎がよかったという時代がずっとあったわけです。何とか関西で歌舞伎がもっと増えるよう,皆様に親しんでいただけるように考えていく,それが鴈治郎という名前の宿命と思っています。