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2015年7月10日(金)第4,541回 例会

木琴デイズ~平岡養一と私

通 崎  睦 美 氏

マリンバ/木琴奏者 通 崎  睦 美 

1967年京都市生まれ。京都市立芸術大学大学院修了。’91年コンサートデビュー。青山音楽賞,大阪文化祭賞ほか受賞。2005年名木琴奏者・平岡養一氏より,楽譜や愛器マレットを譲り受け,木琴の新たな可能性を探る活動も始める。アンティーク着物の収集家でも有名。著書「木琴デイズ平岡養一『天衣無縫の音楽人生』」など多数。

 平岡養一さん(以下,文中敬称略)という木琴奏者の楽器を譲り受けて演奏しております。最初に,平岡についてお話ししたいと思います。平岡は1907年,明治40年生まれ。関西で育ちましたが,東京に戻り慶應義塾の幼稚舎へ。そして,中学の時,銀座の映画館で木琴に出合います。平岡には先天性の障がいがありました。お母さんの「あなたには誰も持っていない才能を神様が与えてくれている」との言葉をいつも胸に抱き,木琴と出合ったときに「これだ」とひらめきます。

 慶應大の学生時代,1928年,昭和3年に,デビューリサイタルを,帝国ホテルの演芸場で開催します。関東大震災があっても帝国ホテルは大丈夫で,この演芸場はアーティストや映画の上映で一流の会場として有名でした。そこでのデビューで,一気に有名になります。

世界一の木琴奏者に

 その後,世界一の木琴奏者にという夢を持って,1930年,昭和5年に単独,渡米します。苦労の後,NBC放送局のオーディションに合格,専属になります。

 そこから10年9カ月,毎朝,ラジオの生放送で15分間,木琴の演奏を続けます。NBCにいたすばらしいピアニストに鍛えられ腕をあげます。

 日本の新聞には「全米の少年少女は,ヨウイチ・ヒラオカの木琴で目を覚ますと言われる」と書かれました。有名な雑誌『ニューヨーカー』にインタビューが掲載され,知名度の高い人気者になっていきました。

 しかし,真珠湾攻撃の翌日,その放送は終わります。当時のニューヨーク(以下,NY)市のラガーディア市長,それからNYフィルの仲間たち,名士やボランティア団体の人が署名を集めたり,声明を出したりして,NYタイムズに掲載されています。

 ですが,平岡は日米交換船に乗って戦時中の日本に戻ります。日本の当局は平岡の実力を戦争に利用しようとします。平岡は,アメリカの国力を十分知って帰国しています。お国のための演奏というより,疲れている国民をいやしたいという気持ちで演奏したと思います。

再度の渡米

 福岡では(空襲で)焼夷弾が落ちてきて,防空壕に木琴を隠して逃げ,翌日焼け野原のなか戻ってみると,木琴は無事で涙が出たことも。フィリピンでも演奏するうち,終戦を迎えます。

 急に日本は文化国家になりました。NHKの「紅白歌合戦」のもとになった「紅白音楽試合」は終戦の年にラジオ放送されます。平岡はこの放送で,木琴でアメリカ民謡の「峠のわが家」を演奏しました。

 文化活動が盛んになった日本で,年間数百公演,1日何公演もしました。ただ,演奏家は,同じようなプログラムでやっていくと磨耗するような気がするんです。それで1962年,平岡は再度,渡米します。

 60年代のアメリカは様子が変わっていて,なかなかうまくいきません。日本に帰国して演奏活動,渡米して休養という生活になっていきます。そして,1981年,ロサンゼルスでお亡くなりになります。

 その平岡の楽器を私が受け継ぎ演奏させていただく関係を映像にまとめました。

(映像上映)

 ご覧のように,映像で弾いていたのは10歳の私で,平岡は70歳。共演させていただいたご縁から楽器を譲り受けました。

木琴とマリンバ

 ここでひとつ。マリンバと木琴の違いを簡単に説明します。

 木琴は,ルネッサンスの時代から欧州で親しまれた楽器です。17世紀の音楽辞典には木琴の絵があります。藁の上に木片を並べゴトゴトとたたく,ストロー・フィドゥルと言われた楽器でした。アメリカにもたらされ,ディーガンという人がザイロフォンという名で売り出しました。これが木琴です。

 マリンバは,アフリカがルーツと言われます。ひょうたんが共鳴管についているバラフォンという楽器があり,奴隷とともに南米に渡ります。それが北上し,同じディーガンが目をつけ,マリンバとして売り出します。藁とひょうたんがなくなり,似たものになりましたが,そういう違いがあります。

 江戸時代から木琴という名が日本で親しまれてきましたが,明治時代には西洋スタイルの木琴が軍楽隊によって演奏されていました。1950年にキリスト教を伝道する人の中にマリンバ奏者がいまして,立派なマリンバの見た目と響きの豊かさに日本人がとりこになりました。

 平岡は,よく音が通る,華やかなのは木琴の音色だ,世界で僕1人になってもマリンバは絶対弾かないとこだわっていました。その後,木琴には数十年,空白期間があったのですが,今は私が木琴奏者になり,一人になっても弾いていきたいと思っています。

 私は音楽家という肩書きではありますが,アンティーク着物のコレクションもしています。1920年代,30年代の着物が大好きで,約600点のコレクションがあります。

 そういうものを見ていますと,ちょうど木琴は古臭い,マリンバがいいと思われた時代と,着物が古臭いと思われて,洋服にしようと思われた時代が重なってきます。日本の高度経済成長期に捨てたものを,昭和42年生まれの私が拾っていると,感じております。

 昭和の初めの文化,大正の文化は,すごく豊かなものがたくさんあります。ぜひ一度木琴の演奏を聞いていただければ大変うれしいです。

(映像とともに)