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2014年5月30日(金)第4,487回 例会

堂島米会所 ―世界最初の先物取引所について―

山 道  裕 己 君(証券取引所)

会 員 山 道  裕 己  (証券取引所)

1955年生まれ。’77年京都大学法学部卒業,野村證券入社。’82年ペンシルバニア大学ウォートンスクールMBA取得,’98年同社取締役,2007年同社専務執行役。’13年大阪証券取引所(現大阪取引所)社長就任。当クラブ入会 ’13年12月。

「大阪取引所」としてのスタート

 昨年1月に大阪証券取引所(大証)と東京証券取引所(東証)が経営統合して,日本取引所グループ(JPX)という新たな持株会社をつくりました。現物株の機能はすべて東証,デリバティブの機能は今年3月24日に大阪へ移しました。大証の愛称で,60年ぐらい続いてきましたが証券だけではなくて,先物,オプションを取り扱うので「大阪取引所」という名前に改めております。

 デリバティブというのはどういうものかを簡単にご説明したいと思います。デリバティブは日本語では「金融派生」とか「派生商品」と言われています。対象は株価指数,日経225,トピックス,債券,金利,商品,最近では天候デリバティブもあります。具体的な商品は大きく分けて上場と非上場があります。当然大阪取引所で扱っていますのは上場物で,先物オプションがあるわけです。先物とは将来のある時点での価格を予測する取引です。オプションは,将来のある時点,あるいはある値段での買う権利,売る権利を売買することです。金額では上場取引物だけで約68兆ドル。非上場物が約10倍,680兆ドルで,とてつもない金額です。

 このデリバティブ市場の頂点に立っているCMEという会社がシカゴにあり,傘下にCBOTという会社があります。シカゴはアメリカの穀倉地帯にあり,デリバティブ市場がまず発達しました。CBOTは1848年に設立された,現存する世界最古のデリバティブ取引所です。そのCMEが世界最初の先物取引所として認定したのが「堂島米会所」です。

世界最初の先物取引所「堂島米会所」

 歌川広重が描いた「堂島米市の図」をお見せします。1820~30年の絵だと思います。「ワーワーワーワー」やっていますが,ここに手桶に柄杓で水をかけている人がいます。当時,大引けの時に長さ3寸,9センチの火縄に火をつけて,その火縄が消えたときの値段を「火縄値段」と言って「大引け値段」にするという制度でした。相場が過熱してきますと,それを無視して取引する人が後を絶たなかったので,役人が水をかけて取引所からの退出を促したそうです。したがいまして,この図は1日の終わりの頃の図ではないかと推測できるわけです。

 米会所の背景をご説明します。江戸時代の日本経済は,米本位制でした。幕藩領主は,自領から年貢米を徴収し一部は武士に対して給金として支払い,一部は換金して軍役等々をはじめとする財政支出とか,あるいは消費財を購入していました。そういう意味では,幕府は米価の安定に大変腐心していたわけですが1652年~1673年には,全国の諸藩は大坂に蔵屋敷を設け資金を得ていました。金融市場だったと言えますが,最も盛んにこの米の売買をしていたのが有名な淀屋でございます。現在も淀屋橋の南詰めには石碑が建っています。取引していたのは「米切手」で,米との兌換を約束した証券の一種です。日本の証券取引の始まりと言えます。

 1688年の井原西鶴の『日本永代蔵』にその頃の1刻(2時間)の間に120万石ぐらいのセリによる売買がなされていたと書いてあります。120万石は大体1年間に大坂に流入していた米の量らしいですが,それを2時間ぐらいで売買していたということです。

徳川吉宗が開設

 八代将軍徳川吉宗は,質素倹約の徹底と新田開発の奨励という「享保の改革」を行います。米の消費が減り,新田開発で供給が増えて,米価が暴落しました。その米価対策として,当時の江戸の南町奉行だった大岡越前守が進言して,吉宗が決断したのがこの「堂島米会所」です。その取引所が立会い機能を持つ寄場(よりば),あるいは清算機能を持つ消合場(けしあいば),そしてその取引所そのものの運営をする運営機能としての会所(かいしょ)という組織分化がされており,現在の先物取引所の原型とも言うべき取引所の形態を既に整えていました。正米(しょうまい)取引が現物取引で,帳合米(ちょうあいまい)取引が先物取引でした。現在の先物取引と同じ機能を持っていたわけです。

 それから,米切手は先ほど申し上げましたように,米への兌換を証明する一種の証券です。財政事情の厳しい藩は,蔵に米がないのに米切手を発行して資金調達をする藩も出てきました。これを認めていたら堂島米会所そのものの存立に関わりますので,1761年には空米(からまい)切手停止令という,命令を幕府が出しました。これによって金融市場としての地位が確立されたわけです。

 もう1つ画期的だったのは,相場情報の伝達です。記録によると1745年には源助という人が大きな傘を使って堂島米会所の相場情報を伝達した記録があります。旗振り通信,米飛脚によって各地へ伝達されました。この米先物市場は1939年,第2次世界大戦が始まるちょっと前に廃止されます。戦後は食糧管理制度,いわゆる食管の下で国が米価をコントロールするようになり,2011年に米の先物が大阪堂島商品取引所で復活するまでは,日本では米先物市場は存在しなかったのです。

 私どもこの大阪取引所と東京証券取引所は,アジアにおける最も選ばれる「Your Exchange of Choice」というスローガンを掲げております。「最も選ばれる取引所」ということで,発展,活性化させていきたいと思っています。取引所として大阪取引所はデリバティブのみになりましたが,たくさんの上場企業の方々がこの関西圏にもいらっしゃいますし,そういった意味でのこの日本取引所グループの西の拠点としての役割もますます強化したいと思っております。

(スライドとともに)