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2014年2月28日(金)第4,476回 例会

医師偉人伝 野口,北里,鴎外,高木に学ぶ

仲 野    徹 氏

大阪大学大学院 医学系研究科・病理学
教授
仲 野    徹 

1957年大阪生まれ。’81年大阪大学医学部医学科卒業,3年間の内科勤務後,大阪大学助手,京都大学助手・講師,大阪大学微生物病研究所教授を経て,2004年から現職。

 野口英世(1876~1928年)は多くの研究をしていますが,ほとんど間違いだったと分かっています。ただ一つだけ画期的な研究があって,進行性麻痺の原因を突き止めたことです。痴呆が進んでいく非常に恐れられた病気でしたが,これは脳梅毒,神経性の梅毒が進行性麻痺の原因だと突き止めた。これがかなり正確度の高い研究だったと言われています。

つくられた偉人伝説

 小学校の小林栄先生に見出され,歯科医の血脇守之助の援助を受けサイモン・フレクスナーの下へ学びに行く。フレクスナーも割と貧しい家の出身で,ロックフェラー研究所の所長になって,それを盛り上げるために野口を最大限利用したとも考えられています。「野口英世」は,この3人によってつくられた日本の民族伝説であるとも言われています。黄熱病に感染,死亡とありますが,恐らく違うだろうとも。黄熱病は致死性の高い病気で改善することはまずない。ところが,カルテを見ると一たん良くなりかけてから死んでいるので,進行状況から言うと脳梅毒が原因だろうと言われています。

 野口が帰国した時に面倒をみたのが北里柴三郎(1853~1931年)。北里は日本の医学界が生んだナンバー1の医学者だと思います。何よりも大きな業績は抗毒素の研究です。今で言う抗体で,細菌が体内に入ってきた時,特異的なたんぱくが出来てやっつける。破傷風菌の純粋培養にも成功しています。破傷風菌は空気のある所では培養できない。それを工夫して培養し破傷風菌の毒素を取り出すことに成功した。

 亡くなった時,北里を神格化し伝記上の人物にしようと働きかけが行われたようです。医学者の金杉英五郎によると「大度量の人でもなく,学者肌の人でもなく,むしろ才智の人であり,策謀の人であり,精力旺盛にして満身エネルギーであった」「もし一定不変の性格を有するものが凡人であるとすれば,北里さんは当に非凡の人であったに相違あるまい」――。早い話が訳が分からなかったということです。神格化されて,いい伝記が残っていないのは残念です。人となりがきちっと記されていたら,本当に度量の大きな人だったろうなと考えています。

森鴎外との脚気論争は高木に軍配

 森林太郎(鴎外)(1862~1922年)はいろいろな文学者とも論争していますが,高木兼寛(1849~1920年)との脚気を巡る論争が有名です。脚気はビタミンB1の欠乏症で,末梢神経障害とか心不全を来します。日本と東南アジアの白米を食べる所でしかない風土病のようなものだったので,欧州とかではほとんど研究されていなかった。

 陸軍で脚気がどれだけ恐ろしかったかと言うと,日清戦争の場合は脚気患者が4万人,死者が4,000人,兵隊でこれだけの死人が出た。台湾平定,森が軍医として責任者でしたが,兵隊の9割が脚気に罹患して1割が死亡した。日露戦争では脚気患者が25万人で死者が2万7,000人。兵力108万人のうちで,戦死者よりも脚気で亡くなった人の方が多いと言われています。この時に,麦飯を与えるべきではないかと森に尋ねるのですが,森は返事をしない。最終的には寺内陸軍大臣に叱責されるところまで行きます。森は脚気では非常に責任があるのじゃないかと言われています。ただ,その頃は白米を食べるのが兵隊になる時の喜びだったので,それがやめられなかったのではないかという話もあります。

 海軍ではと言うと,高木兼寛。英国から来たウィリアム・ウィリスが教授を務める薩摩医学校で学んで英国へ留学,最優秀学生になっています。高木は英国で実地の医学を学び,日本の食べ物が悪いのではないかと考えていた。明治天皇に奏上して,海軍予算300万円のうちの5万円を計上,戦艦「筑波」で実験航海に出る。全く同じ航路を違う戦艦で,洋食を食べさせて航海する。すると脚気はほぼゼロ。やはり食べ物であると海軍は麦飯食を採用。これで少なくとも日露戦争の間は脚気はほとんど起こらなかったと言われています。高木が考えたのは脚気栄養障害説で,日本食はたんぱく質と炭水化物の比率が悪いと捉えた。これはノーベル賞に匹敵する業績だと思います。森は脚気病原菌説をとっていたから悪口を言いたい放題。「ローストビーフに飽くこと知らざるイギリス流の偏屈学者」とか「日本食は栄養学的に問題がないのに,炭素・窒素の比率が原因で脚気になるというのはおかしい」と屁理屈をこね回した。

4割打者はなぜいなくなった?

 こうして見ると,昔の方が偉い人が多かったという印象です。社会が未成熟だったから,活躍できるスペースが広かったのではないか。天才とは限りませんが,いろいろなフィールドでうんと偉い人というのが出にくくなっているのではないかという説があります。進化の科学者,スティーヴン・ジェイ・グールドが『フルハウス 生命の全容 四割打者の絶滅と進化の逆説』という本を書いています。大リーグの平均打率は右肩上がりに上がっている。ところが,4割打者は1941年のテッド・ウィリアムズ以来出ていない。どうしてなのか。平均値が上がっていくと標準偏差がぐっと狭まっていくからではないか。平均値が上がっていくと,うんと偉い人が出にくくなるのではないか。時代的なバックグラウンドもあるが,世の中が進化していくというのはこういうことかもしれないという気がしています。

 明治にはこれだけ偉い人がいた。偉いからと言って,ただ単に偉いだけではなくて,非常に人間味もあるし,訳の分からんとこもあって……。そういうことも含めて,いろいろな人の伝記を読んでいただけたらなと思っています。

 (スライドとともに)