大阪ロータリークラブ

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2013年4月19日(金)第4,436回 例会

商都大阪のメインストリート 御堂筋の源流
本願寺が大坂を開いた

五 辻  信 行 君

会 員 五 辻  信 行 

1953年生まれ。大谷大学文学部卒業。’76年東本願寺入山,’94年東本願寺総務部長,2004年東本願寺財務部長・社会福祉法人岐阜聖徳会理事,’06年東本願寺南御堂難波別院輪番,’09年当クラブ入会

 私たち両御堂,北御堂(津村別院),南御堂(難波別院)が大阪のまちの発展とどう関係しているのか――京都の西本願寺と東本願寺と深く関係している私たちの教団は約800年間日本社会の文化形成に深く関与してきたという自負もございますが,なかなか今日はそれが見えにくくなっております。そのあたりを,今からご紹介いたしますビデオをご覧いただいて,残った時間で私のさらなるコメントを出させていただきたいと思います。

信長に敗北した石山本願寺

 ――今からおよそ460年前,戦国乱世のただ中に,ひとりの僧侶が生まれました。本願寺第十二代教如です。当時の本願寺は大坂本願寺,後に石山本願寺と呼ばれ,寺内町が栄えていました。その勢力は天下統一を目指す織田信長の野望のさわりとなり,期せずして弾圧を受け,追い詰められます。  さて,穏やかな幼少期は過ぎ,次第に国盗りの荒波が押し寄せます。織田信長は,永禄11年(1568年)足利義昭を将軍に擁立し,京都入りを果たします。権力を得た信長は,さまざまな名目で本願寺に大金の負担を強要します。父顕如は衝突を避けるためこれに応じますが,その一方で各地の大名と同盟を結び,寺内町の守りを固めるなど,防御の体制を整えさせていきます。

 その後も信長は寺地移転を命ずるなどさまざまな難題を提示し,やがて石山本願寺を破却するという脅しをかけてきました。打ち続く本願寺への弾圧に対し,ついに元亀元年(1570年)9月12日,全国の大名,門徒衆とともに本願寺は立ち上がります。ここに10年に及ぶ石山合戦の火ぶたが切られるのです。  最初,本願寺は信長軍と互角に戦い,むしろ優勢なほどでした。ところが,4年後の元亀4年(1573年)4月,本願寺の強い後ろ盾であった武田信玄が急死することで,事態は急速に悪化します。信長軍は朝倉氏や浅井氏を次々と攻め滅ぼし,本願寺は重要な同盟関係を一挙に失い,孤立します。

 天正8年(1580年)3月,朝廷による仲介により本願寺は信長の講和条件を受け入れ,事実上敗北していきます。信長は本願寺の明け渡しを要求しました。本願寺は遂に信長の手に落ちたのでした。時に教如23歳のことです。

父顕如との義絶,和解

 4月9日,父顕如は宗祖の御真影とともに本願寺を退去し,紀州,今の和歌山県の鷺森に移ります。しかし,教如はこれに従いませんでした。本願寺の地を信長の馬のひづめ,つまり武力で汚されたくないと強く願ったからです。教如は徹底抗戦を主張し籠城します。

 顕如「本日これより,おまえを義絶いたす!」――このことが原因で,教如は父から義絶……。ただこの籠城も長くは続かず,やがて教如はさまざまな圧力の中で,本願寺を後にせざるを得なくなります。教如退去後の本願寺は,どこからともなく出火し,2日間燃え続けたといいます。  織田信長は,天正10年(1582年)6月2日早朝,配下の明智光秀に謀反を起こされ,自害しました。その知らせを聞いた教如は,すぐさま行動に出ます。紀州鷺森の父顕如のもとへ向かい,「詫状」を呈して和解したのです。

 一方豊臣秀吉は,天正10年6月13日,京都山崎の天王山で明智光秀を破り,信長の後継者としての地位を固めていきます。秀吉は信長と異なり,本願寺に対して好意的でした。天正11年(1583年)7月,本願寺は紀州鷺森より和泉貝塚の願泉寺へ移ります。その後わずか2年で,大坂・天満に移ることになります。天満移転より7年後の天正20年(1592年)7月,秀吉は本願寺の京都移転を命じます。

 天正20年11月24日,父顕如上人は50歳で亡くなります。秀吉は教如に対し,顕如の死を悼みつつ,教如に本願寺を継ぐよう朱印状を送ります。かくして秀吉公認のもと,教如は本願寺十二代を正式に継職し,弟准如とともに教団内の整備を進めます。

本願寺隠退,大坂に寺院建立

 ところが,年が明けて文禄2年(1593年)9月,母如春尼が秀吉に対して訴えを起こします。それは顕如が亡くなる5年前,みずからの跡を長男の教如ではなく弟准如に譲ると証した「譲状」があるというのです。

 秀吉はすぐさま査問を行い,10年後の隠退を命じます。教如はこれを了承するのですが,教如の家臣はこれに反論したため秀吉の逆鱗に触れ,即刻隠退を命じられます。わずか11カ月で教如は本願寺を隠退させられたのでした。

 隠退後の教如は,生まれ故郷の大坂に帰り,そこで一寺を建立します。現在の難波別院・南御堂です。難波別院には,「文禄五年」「大谷本願寺」と記された梵鐘が今も伝えられています。隠退の身で秀吉のお膝元である大坂に寺院を建立したことを,秀吉は黙認していました。と同時に,厳しく教如の活動を監視したのです。――

 途中ですが,ビデオをとめさせていただきました。

 大阪の南北両御堂成立前の歴史的背景,なぜ東西両本願寺が別れたのかというようなことも少しご紹介したことでございます。私たちの両御堂は,今年4月と11月にそれぞれ親鸞聖人の750回御遠忌法要をお勤めいたします。それを記念して,4月28日,私どものほうはこの新聞『南御堂』の見開きにありますようなイメージのパレードをさせていただく予定をしております。御堂筋は両御堂ともに大阪のまちの発展にこれだけ深く関わり,そして今日これからの大阪の発展に私たちも歩みをともにさせていただきたい,そういう気持ちを持っております。皆様とのおつき合い,ご縁を大事にしてまいりたいと思っていることでございます。貴重なお時間ありがとうございました。