1958年3月生まれ。’80年慶應義塾大学商学部卒業,同年東京海上火災保険(株)(現東京海上日動火災保険(株))入社。’09年東京海上日動火災保険(株)総務部長。’11年東京海上日動火災保険(株)理事。
’86年財団法人水府明徳会会長理事就任,’11年公益法人改革により,公益財団法人徳川ミュージアム認可取得理事長に就任。
水戸の徳川でございます。最後の将軍慶喜は私の曽祖父に当たりまして,その彼が大政奉還を致しました。それまでは税金はちょうだいする立場だったのですが,以降お支払いする立場になり,私に至りましては保険会社で細々とサラリーマンをさせていただいているという状況でございます。(映像・スライドとともに)
私は水戸徳川家の15代目です。初代は徳川光圀公の父の頼房公。頼房公の父は家康公です。光圀公は家康公から見ると孫になります。初代頼房公は家康公の11番目の子どもで,男の子の中の末っ子です。家康公から勘定すると私で16人目になります。
大正時代に入ったころには,各大名家ともお金がなくなって食べられなくなってきました。そこで,皆財産を切り売りします。今岡山県に国宝の「燿変天目茶碗」がございますが,それも私どもの家から出ております。ただ,祖父は「誰が見てもきれいなもの,すごいなと思うものは,どなたの手に渡っても大切にされる。だから我々は守る必要はない。でも,一見価値があるようでないようなものに,技術的,美的価値以上のものがある。その価値がわかっているのは,水戸徳川の持ち物であれば水戸徳川家の人間だ。だから,それは守っていかなきゃいけない。それを守るために我々がいる」と,こういうことを私が小学校のころに教えてもらいました。今やっとその意味がわかってきました。それが私どもの徳川ミュージアムの始まりで,昭和42年に財団としてスタートしました。
水戸徳川の家の精神,魂を確立したのが,初代・頼房公の子ども,光圀公です。1628年のお生まれ。テレビドラマで有名な水戸黄門です。光圀公は3男ですが,事情があって2代目になりました。兄は1622年生まれで,讃岐高松松平家の初代,頼重公です。兄がいるのに後継ぎになったことで光圀公は父親に反発し,18歳まで不良でした。家臣の日記にも「歌舞伎者」と出てきます。
しかし,司馬遷が書いた『史記』の「伯夷伝」というパートを読んで,更生します。兄の子に水戸徳川家を継がせるため,自らは世継ぎをもうけないと決めます。もう一つ,司馬遷の『史記』の「伯夷伝」のような歴史書を日本でもつくると決めました。これが「大日本史」です。大日本史の編纂と,兄の血に水戸徳川家を戻すこと,この二つが光圀公のライフワークになるのです。以来,歴代藩主のポケットマネーで編纂事業が行われ,明治39年,262年かかって完成し,私の祖父が明治天皇に献上しております。
光圀公の編纂方針は,「史記」にならって極限まで事実を突き詰める,敵味方関係なくどっちが正しいかを客観的に分析する,です。史学は,過去を明らかにすることで国のたどってきた道を明らかにし,将来の進むべき道の理想を掲げるためのものだ,と。光圀公は「往ぎたるを彰かにして来るを考える」という論語の一説「彰往考来」から,編纂所に「彰考館」と名付けます。それは,大日本史とともに出来上がっていきます「水戸学」という学問に「なぜ歴史を学ぶのか」という最初の問いかけがあるのですが,それに対する答えでもあります。
光圀公は,編纂を通じて過去を見ます。すると,政変や大きな問題が起こると,必ず天皇のところに武士たちが集まってどうしようかと話をする。すなわち,日本の国はずっと皇統に貫かれた歴史だったということを知るのです。以来,光圀公は尊王思想者になります。それだけではなくて,例えば『万葉代匠記』,『神道修成』,『礼儀類典』など多くの研究をして,それを書物にまとめて発行しています。彰考館は大日本史の編纂所というだけなく,光圀公のシンクタンク的な役割を果たすのです。
光圀公の教えの中で私どもがよくお話しするのが,「わが君主は天子なり,今総室は将軍家なり」という言葉です。これは「われわれ武士は天皇に仕えている」という意味で,それを家康公の孫が言うのです。江戸幕府にとって将軍は絶対的な権力者であったはずなのに,その人も天皇に仕えていると言えてしまうことの自由さ,懐の深さが江戸時代にもあったし,幕府にもあった時代です。
その教えが「大日本史」とともに伝わり,9代・斉昭公は息子・慶喜公を自らがつくった藩校「弘道館」に入れ,「わが君子は天子」と自分で教えていきます。慶喜公は11歳で一橋家を継ぎ,27歳で将軍になります。在位期間は10カ月です。その間に大政奉還を決断するのですが,この決断には,自分の母は有栖川宮家出身,水戸徳川家は尊王の家,さらに官軍側の総大将は慶喜公のお母さんのお従兄弟さん,有栖川宮です。母の実家と一戦をまみえる,これはやっぱりいかな将軍といえどもやれなかった。
ただ,刀に手をかけている武士がいる手前,鳥羽・伏見の戦いをやりました。ですから,「鳥羽・伏見から逃げ帰った」とよく言われますが,鳥羽・伏見の戦いの最中に英国公使と会っています。薩長方が英国,幕府方がフランスです。ここで代理で日本人同士が戦えば,勝った側の植民地になってしまう,と頭をよぎったんだろうと思いますし,武士が仕えているのは天子だから政治を天子に戻す,これはもう自然と慶喜公の心の中にもあったんだろうと思うのです。
水戸徳川家には,いつも大日本史がありました。9代目の子どもに伝わり,大革命を日本人同士でやったということにつながる。これが水戸徳川家の伝統,教えであって,我々も守らねばならないと思っています。