1957年1月生まれ。’81年早稲田大学政治経済学部卒業後,三和銀行(現 三菱東京UFJ銀行)へ入行。’90年(株)旭屋書店入社。
’96年 同社 代表取締役社長に就任。現在に至る。
当クラブ入会:’92年8月,’99~00年度クラブ幹事。本年度ロータリー情報委員長
1月はロータリー理解推進月間ということで,ロータリーのことをよく知っていただくためのプログラムなどを実施する月間になっています。当大阪RCではロータリー情報委員長が卓話担当です。ことしは,大阪RCが創立されて90周年。原点に戻ろうということで創立当初の様子をできるだけお伝えしたいと思います。
大阪RCは1922年(大正11年)の11月17日,創立総会が今橋ホテルで開かれました。創立準備会は11月1日,大阪ホテルでありました。「1週間後,すなわち11月7日正午12時に創立総会を開催することに決す」と記録にあります。11月1日の1週間後は11月8日。しかし,記録では7日。さらに創立日は11月7日ではなくて17日です。実際に何があったのかは,今となっては知る由もありませんが,何らかの事情で開催日がずれて11月17日に創立総会が開かれたのであろうと想像しています。
創立総会の翌週11月24日の金曜日,第4金曜日に2回目の例会が予定どおり開かれました。当時の大阪RCの会員江崎政忠さんが,「木材防腐事業」について講話をされています。これが大阪RCの卓話第1号です。ただし,内容は全くわかりません。大阪RCの卓話は,当時も内容は多岐にわたっていました。第1次世界大戦の戦後処理であるドイツの賠償金問題が取り上げられているときもあれば,小林一三さんが西洋の音楽,劇について話をされていたこともあります。1923年(大正12年)の2月には,「ロータリーソングを制定すべし」という意見が例会で出て,当時の星野会長に一任をされています。同じ年の7月には会報が発行されるようになりました。創立後1年以内に現在の例会の体裁がほぼ整っています。
例会場は,会場の都合で創立以来80周年までに何度か変わっています。創立準備会大阪ホテル,第1回例会今橋ホテル,昭和8年綿業会館,昭和10年新大阪ホテル,21年大丸,27年新大阪ホテルというふうになっています。新大阪ホテルから大丸,再度新大阪ホテルになったのは,戦後,新大阪ホテルが進駐軍に一時接収されていたためです。
大阪ホテルは,今の東洋陶磁美術館があるところです。このホテルには,浴室付きの洋式客室が14室,大小宴会場,食堂,酒場,談話室,図書室,ビリヤード,調髪室などが設けられていました。食事は皇族方が大阪に来られたときや,国際的行事が大阪,関西で行われたときに担当するほどのレベルで,技量あるコックが腕を競って西洋料理が供される大阪唯一のホテルでした。
その次の今橋ホテルですが,今橋西詰めにありました浪速ホテルを大阪ホテルが買収をして,支店として今橋ホテルという名で営業したのです。建物は残っていません。1924年(大正13年)の11月に,本店である中之島の大阪ホテルが火事で全焼し,支店の今橋ホテルが大阪ホテルと名前を変えます。
今橋の大阪ホテルは画期的なホテルでした。神式の設備を設けて,結婚式と披露宴を京阪神で最初に始めました。また,12月25日には,日本人を対象にしました忘年会とクリスマスを兼ねた催しを開いています。今で言うクリスマスディナーショーです。日本のホテル史で,最初の画期的コンセプトに基づくホテルだったそうです。
中之島時代の大阪ホテルも含めて,それまでのホテルは外国人旅行客に利用をしてもらうというのが主目的でした。しかし,今橋の大阪ホテルは地域密着型の多目的ホテル,言い換えれば,現在のシティーホテルのビジネスモデルの先駆けであったということです。大阪RCは,時代の最先端を走る施設で例会を開いていたのです。
大阪RC初代会長の星野行則氏は,創立準備会でこのように述べています。「かねてより各種事業並びに職業に重要地位をしむる人々を網羅する倶楽部を組織せることを希望せし」
当時は第1次世界大戦の10年前に日露戦争,その10年前には日清戦争と,国の命運がかかる戦争を行ってきて,やっと落ち着いたと思ったであろう時代です。大阪RCが創立された1922年は第1次大戦による戦争特需が一段落して戦後不況が訪れますし,シベリア出兵の失敗など混乱はあったものの,日本は債務国から債権国へと転換しますが,全体を見れば繁栄の時代だったのではないでしょうか。創立の翌年には関東大震災が起こり,その後大正天皇が崩御され,昭和に入ると金融恐慌と,災難や混乱が待ち受けているとは,予想だにしていなかったと思います。
日本のロータリークラブの中で,大阪RCと東京RCの二つだけがスポンサークラブを有しておりません。自主独立,手探りで創立したのです。後押ししてくれるスポンサークラブがなければ,社会環境が整っていなければ,創立のためのハードルはさらに高くなっていたと思われます。よくぞこのつかの間の落ちついた時期に創立しておいてくれたとつくづく思います,幸運であったとも思います。この時期を逃していれば,果たしてすんなり大阪RCが設立されたかどうかはわからないのではないかと,個人的には思います。
自主独立の誇りと気概のなせる技だと思いますが,創立後も何かにつけてロータリー本部と直接堂々と渡り合っています。考えてみれば,相談できる相手といえば東京RCぐらいです。いやが応でも直接渡り合わざるを得なかったのかもしれません。しかし,その時代の人たちの気概とプライドは,もう一度思い起こす必要があると考えています。