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2010年10月22日(金)第4,322回 例会

正史の勧め

室 谷  克 実 氏

作 家 室 谷  克 実 

1949年1月東京生まれ。’71年3月,慶応大学法学部卒業。同年4月,時事通信社入社。政治部記者。鳥取支局,政治部,ソウル特派員,政治部,整理部次長,宮崎支局長,「時事解説」編集長,宇都宮支局長。(社)外交知識普及会に出向,常務理事兼「時事評論」編集長,(財)地域活性化センター出向「地域づくり」編集長。
’09年3月,定年退社。著書:「韓国人の経済学」,「朝鮮半島」(ダイヤモンド社)「その裏で金が動いた―小説・金大中謀略事件」(徳間書店)=西原勝洋

 正史は皇帝や王の命令によって編纂された歴史書のことです。中国には「史記」から始まっていろいろな正史があります。正史の中の日本関係の部分を丹念に読んでいくと,私たちが習った日本の古代史の姿とは全然違う日本の姿が見えてきます。

 例えば,隋が滅び唐ができると,唐の皇帝は「前の王朝についての歴史書を書きなさい」と学者たちに命じ,「隋書」という正史ができました。最終的には「隋は悪かったから遂に滅びて正しい唐ができた」という大義名分が出てきます。しかし,他の部分はきわめて客観的に書いています。

半島の南は倭の土地

 中国の主だった歴史書にはすべて,「東夷伝」という付録がついています。当時の漢民族より東のほうに住んでいた民族の歴史,というか当時の最新レポートです。

 「三国志」の「魏志倭人伝」の前に「韓伝」があります。「韓伝」で朝鮮半島の東側,初期の新羅の国があった地域のことを書いている部分に「国出鉄,韓,(わい),倭皆従取之」とあり,「そこ(新羅)に鉄が出る。韓族,族,倭人がこぞってその鉄を取っている」という内容が書かれています。倭人が出稼ぎに行ったのではなく,新羅地域にも倭人が住んでいて,鉄を掘っていたということです。

 さらに読み進めますと,朝鮮半島の南を描いた部分で,「其 盧国与倭接界」という記述があり,「韓族の国である盧国は,倭と界を接する」という意味です。この接し方について日本の歴史学者の一部は「海を隔てて」と解釈していますが,その解釈には無理があり,地続きだと思います。盧国は現在の釜山の西側とされています。

 「三国志」の「魏志倭人伝」はよく読まれています。「倭人伝」は帯方郡,つまりソウルあたりから倭国に行く道筋を書いています。倭国の中心,つまり卑弥呼のいた国までどうしたら行けるかということを書いているわけです。

 「従郡至倭循海岸水行,歴韓国乍南乍東,到其北岸狗邪韓国七千余里,始度一海千余里至対海国」とは「帯方郡を船で出て,その後朝鮮半島の南部を斜めに横切ると,その北岸狗邪韓国に着く」という意味です。

 ここで重要なのは,「到其北岸」の「其」です。これは「倭人伝」ですから,「其」は日本を指します。つまり,倭国の一番北岸である「狗邪韓国」に着く。「狗邪韓国」は韓族の「韓」を使っているけれども,実は倭人が支配する国だと中国人はみていたわけです。  「狗邪韓国」は現在,空港のある金海市(慶尚南道)といわれています。つまり釜山市の西が「韓伝」に出てきた「界を接する」という○盧国」であり,それと隣接するのが金海市,「狗邪韓国」です。「魏志倭人伝」と「韓伝」をあわせ読めば,朝鮮半島の南は倭人の土地だったということが明らかです。

 日本の学者や朝鮮の民族主義学者は「任那はなかった。あれは皇国史観の捏造したものだ」と言いますが,中国の昔の史書は「半島の南は倭の土地だ」と書いているわけです。

任那はあった

 「後漢書」では西暦59年,「倭奴国奉貢朝賀,使人自称大夫,倭国之極南界也,光武賜以印綬」とあり,「倭奴国の使節が来て,倭奴国というのは倭国の一番南側にある。その使節に金印を贈った」という内容です。福岡の志賀島から出てきた有名な金印のことです。

 「後漢書」には「韓族の従順な村長さんに銅印を贈った」ということも書いています。中国の皇帝にとって金印を与えるか,銅印を与えるかは天地の差です。

 おもしろいのは「後漢書」の編者たちが「倭国は朝鮮半島の南側と列島の北側にある国で,この両方合わせて倭国であり,列島側が倭奴国だ」という地理認識をもっていたことです。「倭国之極南界也」というのは,つまり北があったということです。「後漢書」も「魏志倭人伝」も同じ地理認識で書いています。当事者とは関わらない第三者の立場で書いています。つまり,任那はあったということになると思います。

新羅王に日本人

 朝鮮半島にも「三国史記」という正史があります。これは新羅が滅びた後にできた高麗の王が「恥も全部さらけ出して明文の正史をつくれ」と命じてつくらせた史書です。

 それでは,西暦8年,「王様が脱解という人間が賢者であることを知って,娘を嫁がせた」という記事があり,その2年後に「その脱解に国政全般を任せた」とあります。

 新羅の3代目の王は2代目の王の長男が継ぎますが,3代目の王の遺言によって,4代目には脱解という人間が王になりました。

 脱解について書かれた最初の一句は「脱解本多婆那国所生也。其国在倭国東北一千里」。「脱解とはそもそも多婆那国の生まれである。その国は倭国の東北一千里にある」との意味です。完全な説話,神話ですが,「多婆那国の王妃が,人間ではなくて卵を産んだ。これは不吉なものだとして海に流したところ,それが新羅に漂着した。それが脱解である」ということを書いています。

 「倭国東北一千里」とありますが,韓国では1里は400メートルです。漢字文化圏では首都を起点にしており,東北に400キロのところを見ると,九州から見ると鳥取県あたり,奈良飛鳥から見れば新潟あたり。そこらから流れていった倭人が新羅の4代目の王に就いたということを朝鮮の歴史書にちゃんと書いているのです。