1951年生まれ。’75年日本経済新聞社入社。大阪本社文化担当部長,東京本社生活情報部編集委員などを歴任。福岡県出身。
昔の「私の履歴書」,大映の社長で永田ラッパと呼ばれた永田雅一さんの「私の履歴書」を読み返す機会がありました。話はおもしろいのですが,うそばっかり。うそだというのは当時はわかりません。後にいろいろなことが判明してきて,なんだ,あのときああ言ったのは違うじゃないか,というようなことが出てきますので,うそばっかりということになるわけです。
現在,私どもが読者の皆様にご提供しております「私の履歴書」には,うそはありません。うそはありませんが,書いていないことがいっぱいあります。それは当然のことでございまして,関係者ご存命ということになりますとうかつに書くわけにはまいりません。1つの出来事があって,この方から見るとこうだけど,この方から見るとこう,というのはたくさんございますので,そういう見解が分かれそうな場合については,あまり触れないというようなことはございます。
基本は,功なり名を遂げた方がどういうご苦労,困難を乗り越えてその道を歩んでこられたかということを,いやみでないように書いていくということがポイントです。
ですから,私は必ず最初お目にかかったときに,自慢話をしたらその時点で読まれなくなりますから,自慢話はやめましょうね,偉くなってからのことはやめましょうね,という話をするんです。「そうですね」っておっしゃって取材が始まるのですが,ついつい自慢話になるというのはよくあることでございます。
それを,まあ,まあ,まあ,というようなことでお話ししながら「これは吉本新喜劇と同じです。涙と笑いです。涙と笑いがなかったら最後まで読んでもらえません」というふうなことを申し上げて,半年ぐらいかけて仕上げていくというのが普通のスタイルでございます。
「私の履歴書」に登場すると老い先が短いからいやだとお断りになる方がいらっしゃいますが,これは間違いでございます。老い先が短そうなので早く登場していただきたいということでお願いしているのでございます。「その履歴書なんちゅうものに出たら死ぬそうやないか」とおっしゃったのが米朝師匠でございますが,米朝師匠は今もお元気でおられますので,これは一種の都市伝説ということでご了解をいただきたいと思います。
「私の履歴書」をやっていて何がおもしろいかというと,書くわけにいかないこともズバズバ聞けるところです。男女の問題は普通,書かないのですが,長いこと取材でおつき合いしていると,お酒の席かなんかでどうしてもしゃべりたいというのがあって,「ちょっと聞いてくれる,どのくらいもてたか」みたいな話が結構ございます。 ご本人があるところで公表なさっているので言っていいかな,というのが1つございます。作曲家の船村徹さん――船村先生とは「私の履歴書」の取材で1年かかりました。何で1年かかったかと言うと,「さあ,取材始めましょう」と最初の30分はしらふですが,30分たつとお酒が入ってわけがわからなくなる。ですから,お酒の上でのお話で,これはというのもたくさんございました。また,ご自分でお忘れになっていることが召し上がっているうちに浮かんできて,ああそうだったということで,それこそよそでお話しになっていない,いろいろなことも,随分聞かせていただきました。
その中で1つ。先生がお若いころ,昭和30年代から40年代にかけての歌謡曲全盛時代というのは,作詞家・作曲家も歌い手さんと同じぐらい人気があって,船村先生のブロマイドも結構売れたそうです。見せてもらいましたが,ほとんど別人でした。これなら売れたかもしれない。
非常にもてていた独身のころの話です。先生は親しくなると私のことを「野瀬ちゃん」と言うんですけど――。
「野瀬ちゃん,俺はある時期,晩御飯を3ヵ所で食ってたんだよ」
「先生,何ですか,それは」
「行かなきゃいけないところが3ヵ所あったんだよ」
「そうですか。それは大変おめでたいことでございます」
「ちょっと良心が痛んでね」
「それで先生どうなさいました」
「一夫多妻みたいになっちゃったもんだから,まずいんだよね」
「で,どうしたんですか」
「イスラム教ってどうだったかね」
イスラム教が一夫多妻を認めているかどうか知りませんけども,当時の船村先生は認めてると思われたらしいんです。
「横浜のほうのモスクに行って入信したいとお願いしたんだけど,ダメだったよ」
当たり前です,そんなもの。
今「私の履歴書」は有馬稲子さん,大変な女優さんです。おわかりと思いますが,女優さんというのはしゃべれないことが多いんです。そこのところがどんなふうに,どこまで出てくるかというのを,私は注目して読みたいと思っております。
それから,今私が取材をしておりますのは,ご当地大阪で創業いたしましたオービックの野田さんでございまして,まさに話は大阪の西区で創業したというところでございます。これから,それがどんなふうに大阪の土壌の中で大きく育っていくのかというのを聞けるのではないかと楽しみにしております。