1973年西宮生まれ。神戸松蔭女子大学国文科卒業。’88年15歳で全日本選手権シングルス優勝。グランドスラム9年連続出場。WTAベストランク14位。’05年結婚,一児の母。
「沢松家ということイコール,さぞかし英才教育で育ったんじゃないですか」とよく聞かれますが,違います。テニスをやれと言われたことがないんです。
西宮の自宅にはテニスコートがありました。私が生まれたころはおばが現役で,毎日のように練習していました。それを見て育っていれば,テニスが生活の一部になります。泳げるようになっても全然喜んでくれなかった親が,打ったボールがネットを越えただけで「お前は天才だ」とほめました。乗せられて「私はテニスをやりたい」ということを小学校の時でしょうか,親にお願いしました。
この時から,親の顔つきが変わってきました。約束事がありました。まず1つは,やりたいと自分で決断したからには,最後までやり遂げなさいということです。
もう1つはアスリートになるためには,集中力が必要です。普段の生活の中で,何かをしながら何かをするということをやめなさい。テレビを見るんだったら,テレビだけに集中しなさい。本を読むなら本を読む。それからはひたすら練習する毎日でした。
父の転勤で,小学校1年生から5年生までドイツのデュッセルドルフに住んで,ドイツ人のコーチに教わったことがまた1つ大きな転機になりました。
日本人のコーチと考え方が全然違うんです。1つは,小さいころから,いかにテニスコートで子どもたちが楽しめるかということを教えてくれました。
もう1つは,長所をほめて伸ばして,その選手の武器にしてしまう。私の好きなショットはフォアハンドで,徹底的にほめるんです。日本人のコーチには,平均的にすべてができるようになりましょうと教えられました。
私が引退したのは,ユーゴスラビアからアメリカに亡命されたモニカ・セレシュ選手との試合でした。負けてロッカールームで「正直に教えて。世界のトップから見て,日本人選手はどう見えるの」と聞きましたら,「ウーン,難しい。まずはね,戦いにくい」と言うんです。「弱点がないから作戦が立てにくい」。「だけどね,恐いと思ったことは一度もない」。これが私がセレシュに勝てなかった理由だなと思いました。
世界と戦っていくには,自分にしかないもの,武器をしっかり身につけていかなければとても勝てないんじゃないかということを,引退した時に知りました。
15歳,高校1年生の時に,初めてプロが出る大会に出させていただきました。全日本選手権です。日本で正真正銘一番を決める大会,主催者の推薦枠で,腕試しで行ってこいということで出していただきました。1回戦で負ける気満々,誰も勝てると思ってなかったのですが,無心というのは本当に恐いです。若さの勢い,それから無心。今思い返しても,この2つだけで優勝してしまいました。
天地がひっくり返ったような生活です。「フォーカス」,「フライデー」,週刊誌,大変な勢いでわが家の前に張りついていらして,電車に乗っていても「沢松やろう」と声をかけられます。
そこでやってきたのが,その後1年の大スランプです。全くラケットが握れなくなりました。こんなに周りに注目されているのに,結果が出せなかったらどうしよう。恐くて仕方がなかった。本当に辛い1年でした。
大スランプをどうやって乗り切ったのかと言いますと,これは2つのポイントがあったと思います。1つは,ヒントはいろんな人にもらっていいと思いますが,答えは必ず自分で出さなきゃいけないということです。親,コーチ,友達,いろんな人に相談して話を聞いてもらう。でも,壁を破るのは自分だということです。
もう1つは,手の届く目標を立てることです。テニスボールが2球入っている缶が売られていますが,プロであれば10球打てば10球当たります。おふとんとかいろんなものをテニスコートに引っ張ってきて,それにボールを何とか当てるように頑張りました。
高校総体の兵庫県予選に出て勝って決勝まで行き,大きな自信になりました。夏のインターハイ全国大会では優勝し「私は壁を破った」と実感できました。これがあったからこそ,15年前の阪神淡路大震災で自宅が倒壊する,家族と連絡が3日間とれない,生きているのか死んでいるのか分からない中でも試合に出続けることができました。(ウィンブルドン含め)ツアーで自分の気持ちを10年間保つことができたのも,スランプが来た時の対応方法を15歳にして学んだことが大きいです。
10年間のツアー生活を終え,25歳で引退しました。私にとってはとても寂しい出来事で,どういうタイミングで引退するか,引退した後に何をするのか,非常に悩みました。
出会った言葉がありました。「あなたにしか咲かない花を咲かせてみよう」。SMAP(スマップ)の歌で聞いたような歌詞ですが,見つけたのは私の方が早いです。
私にとっては本当に心に残る言葉でした。引退してテニスという私にしか咲かない花がなくなってしまっても,それはあくまでも競技者としてのテニスであって,解説をして多くの方に選手の気持ちをお伝えする,講習会とかでテニスの輪を広げていくことを通じて,これからも花を咲かせることができるんじゃないかと感じた時,これならやめられると踏ん切りがつきました。
仕事はお休みをいただいて,まずは子どもを育てること,これが今の私にしか咲かない花だと思っています。それもすごく大切で立派なお仕事だなと実感しています。