1955年11月神奈川県横浜市生まれ。北海道大学文学部哲学科(宗教学専攻)卒業。
’79年4月読売新聞東京本社に入社。長野支局勤務。’84年4月東京本社経済部。証券,金融,貿易,財界,旧通産省,旧大蔵省などを担当。’97年1月経済部次長。’98年6月論説委員。金融・マクロ経済などの社説を担当。’01年7月1面コラム「編集手帳」を担当,現在に至る。執筆者としては6代目。著書「編集手帳」第1巻~第15巻(中公新書ラクレから刊行中),「夜更けにコラムを」(中央公論新社)
コラムを書いて6月末で丸8年になります。大体年間250本になり,6月末で2000本ぐらいになるかと思います。プロ野球の選手ですと,2000本安打というのは名球会に入るところです。私の場合は何の自慢にもならないのですが,2000回もバットを振っていると多少の泣き笑いはあるものです。
『天声人語』を書かれた荒垣秀雄さんは,「新聞の1面コラムというのは,家に例えれば縁側である。一番入りやすいところ,ちょっと裏庭から寄って,縁側に腰掛け,『きょうはどんなあんばいだい』というような声をかけられる関係が,新聞で言えば1面コラムだ」とおっしゃいました。私もそう思います。
荒垣さんは家に例えましたが,私は人の顔に例えております。新聞というのが人の顔だとするならば,1面コラムというのは何か。私は「シワだ」と答えております。白骨死体なんかが見つかったときに,生きていたときはどんな顔だったかと肉付けして,復元した写真が交番の横に張ってあったりしますが,どうも気持ちが悪い。なぜかと言うと,シワがないんです。血が通っている感じは,あの顔からは思い浮かべないんです。
紙とインクでできている新聞というものにどういう血が通ったものが書けるのか,血を通わせるのかが,1面コラムの役割ではないかと思っております。4月1日の『編集手帳』というのは,新しい社会人になった人たちへのエールを書くのが普通ですが,私は内定を取り消されて失意の底にいる人を頭の中に描いて,その人に読んでもらえるようなコラムを書いたつもりです。
一番悲しんでいる人は誰だろう,一番辛い立場にいる人は誰だろう,いつもその人に焦点を当てて書きたいと思っていますし,書いているつもりです。勝敗があれば私は負けたほうの立場に立って書いてしまいます。
8年前に『編集手帳』を引き継いだのですが,前任者から「1面コラムを書くというのは毎日ストリップを踊ることなんだ」というような引き継ぎを受けました。私も50何年か生きてきましたが,自分の人生観だとか,年輪だとか,自分が持っているもろもろのものが,わずか34行の原稿の中に毎日,裸の形で出てくる。裸を毎日見せながら原稿を書いているのが私らの仕事のようなものです。
今,書くことの難しさ,一番の壁といいますか,乗り越えなきゃいけないのはインターネットだろうと思っております。1つには,読者の情報量がものすごく増えました。素人の方がコラムを書こうとすれば,ネットで調べたことを散りばめて書ける。私どもは職業としてコラムを書いているわけですから,同じようなものをやっていたのではプロの名に恥じるわけで,ネット時代を迎えてコラムは書きにくくなったと思います。
朝日新聞の『天声人語』は古い伝統と歴史がありますが,去年の4月から初めて執筆者を2人体制にしました。読者の側が情報をたくさん持っているから,書き手も情報をたくさん持って対抗しなきゃいけない。ならば人数を増やして読者の情報量に対抗しようということで2人体制になったのだと思っています。
もう1つネットに関して言いますと,読売新聞の「YOMIURI ONLINE」というサイトで『編集手帳』を読むことができます。『編集手帳』をネットで読んでもらうのはうれしいことですが,書いている側からするとちょっと辛いところがあります。
実物の新聞は,食べ物に例えると「お花見弁当」や「幕の内弁当」です。1面のニュースがあり,暮らしの情報があり,1面にコラムがあり,社会面にも事件が出ている。社説もあり,テレビ欄もあります。いろんなものを,好きなところを食べていい弁当箱です。1面のコラムは栄養はなく,読んでもためにならないけども,味はちょっといい。食欲のない人でも『編集手帳』から食べ始めれば,ほかの料理にも手が伸びるかもしれない。
ネットの読者というのはお弁当ごと買ってくれるわけではなく,『編集手帳』だけ読むわけです。一品料理として『編集手帳』を読み,「確かに味は悪くないかもしれないが,食べても全然腹にたまらないな」と言われると,「腹にたまるものは新聞のほかのページに入っているんです」と私などは言いたくなるんです。あっちを食べてもいい,こっちを食べてもいい,こっちは途中で食べかけてやめて,また別のを食べてもいいという,それが本来の新聞の楽しさであると思います。
新聞とロータリークラブは似ており,目標は一つです。商道徳を守り,消費者の信頼を得て企業活動をしなければいけないとの目標です。ただ,やり方が反対で,新聞は悪いやつをたたきながら,理想的な企業社会ができたらいいということを言うわけです。ロータリークラブの会報を見ると,いいことをやっている人たちを広め,こういう人たちに拍手を送りながら目標を達成しようとしている。ロータリークラブの会報で悪いやつをたたくわけにはいかないでしょうけれど…。
私どもも,悪いやつがいっぱい出てくる新聞を喜んでつくっているわけではないので,ロータリークラブの会報にあるような記事をうちの新聞でも読めたら,少し心が清らかになるかもしれないとも思いました。そのへんはバランスが必要なのかもしれません。