大阪ロータリークラブ

MENU

会員専用ページ

卓 話Speech

  1. Top
  2. 卓話

卓話一覧

2008年10月31日(金)第4,230回 例会

大阪時計製造会社の話

石 原    実 氏

(株)石原時計店 
取締役社長
石 原    実 

1928年12月生まれ。’51年大阪大学文学部英文学科卒業。米国National Association of Watch and Clock Collectors 協会会員。
石原昌二会員ご尊父。

 「大阪時計製造会社」と言っても,何の会社かと思われていることと思います。今から約120年前の1889年(明治22年),大阪と京都の時計商が集まり,掛け時計を造ろうと設立された会社です。日本初の懐中時計の製造に取り組みましたが,1902年にわずか13年で解散した薄幸の会社です。

日米合弁で大幅増資

 設立時の資本金は2万円,払い込みは1万円です。それが5年後の1894年には懐中時計を製造するため日米合弁会社となり,一挙に30万円に増資。その翌年には日本初の懐中時計を製造しました。1897年には45万円に増資したものの,1年後に15万円に減資。この減資について,アメリカ側株主から総会決議無効の訴えがあり,一審,二審とも会社側が敗訴。1901年に大審院(今の最高裁判所)でも敗訴し,資本金を45万円に戻しました。その時点で会社は成り立たないと判断し,1902年に解散したのです。

 日米合弁会社を作った経緯は,日本での懐中時計の製造先を探していた米国の企業家グループが,東京や横浜でうまく行かず,大阪の財界に接触。そこで大阪時計製造会社へ話が来たのが始まりでした。

 さて,資本金2万円,払い込み1万円で創立した会社が30万円に増資しました。当時の米の価格が10㎏80銭で,現在は10kg4,800円とすると6,000倍。当時の30万円は現在の貨幣価値では約18億円になる計算です。

 30万円の半分は製造機械の現物出資でした。掛け時計生産はわずか3,600円の機械で始めることができましたが,懐中時計は15万円

の機械で造るわけです。従来と全然違う資本集約的な事業と言えます。こうした経営上の大革新を1回の臨時総会で決めたというのは,当時の大阪の財界人が進取の気性に富んでいたことをうかがわせます。

 (「新会社」は)日米折半出資による合弁会社であり,米国グループはバトラーが代表です。米国から持ってきた時計製造機械一式を15万円と評価して現物出資し,50%の株式を取得。日本側はそれ以外に技術指導料等を6万円支払う契約になっていました。

 内田星美東京経済大学名誉教授はセイコーの社史編纂の中で「これは明治の日本で最初の合弁会社設立である」と述べられています。当時は条約改正前で外国人は日本の会社の株を持てず,日本人名義で株を取得しているので,厳密には第1号ではありません。正式には条約改正後に日本電気(NEC)が立ち上げた合弁会社が,第1号です。

 増資により株主分布が大いに変わります。住友の関係者をはじめ在阪の一流事業家,寺田甚与茂,山辺丈夫,松本重太郎らが株主になりました。一方,京阪時計商グループは新事業に積極的なグループと消極的なグループに分かれ,後者は株を売却して去っていきました。私の曽祖父・石原久之肋は取締役の一員に残りました。大阪時計製造株式会社は大阪,京都の時計商の事業から,大阪財界の共同出資事業へと変貌を遂げることになります。

旧工場で生産開始

 バトラーと契約を交わし,長柄に2,500坪の土地を買い,アメリカ仕様の新工場を建てて懐中時計の生産に入る予定でした。しかし掛け時計の売上不振のため,懐中時計生産を急がなくてはならなくなり,とりあえず掛け時計工場の一部を使うことになりました。ところが,運悪く日清戦争が起こり,建物の手直しやボイラー納入などが予想以上に遅れました。

 機械の次には人間が要ります。懐中時計製造技術者のウイラーら,技術者や工員を次々と呼び寄せ,最盛期には13名の外国人技術者がいました。米国の時計会社で技師長や工場長などを経験したウイラーの月給は350円。日本人常務が35円ですから10倍です。工場経費の約7割を外人技術者に支払っていました。

 本邦初の懐中時計は1895年に誕生しました。旧工場での生産のため,能率の悪さ,初動の遅れが経営の足を引っ張る一因となります。長柄の新工場は1年ほどかけて完成し,旧工場に仮に据えた機械をまた移転し,本格生産を始めたのは,翌年の春でした。

 増資で14万円の現金は入ったのですが,技術指導料や人件費も増えました。本格生産の立ち遅れは,その後の経営を困難にしました。

 新工場落成から1カ月後の1896年の株主総会で損失を説明し,外人を漸次解雇,日本人のみで懐中時計を製造する方針を示しました。しかし営業は悪化し,1897年には15万円増資して一挙に償却しましたが,バトラーは(増資を)引き受けず,失権しました。その失権した株を社長の野田吉兵衛が全部引き受けました。その翌年,会社は減資を強行し,資本金15万円になりました。

 ところが1899年,バトラーが訴訟を起こします。増資決議も無効,減資決議も無効ということで会社が敗訴。よく考えると,もうかっていないのになぜ増資したか。日本人は全部引き受けましたが,アメリカ人はさすがに引き受けなかった。そして,その翌年には減資している。これは非常に荒っぽいやり方です。会社側は敗訴し,経営陣は会社の存続は不可能と判断して1902年に解散しました。

月産450個,利益出し配当も

 減資してから2,3年は,きれいに借金がなくなったので時計の生産に専念でき,1898年下期には懐中時計に進出以来,初めて利益を出し,配当もしたようです。そのときの記録によると,生産量は月450個でした。

 1900年下期以後は北清事変の影響で不景気のため売上減となり,その翌年にはバトラー訴訟で最終的に敗訴。野田吉兵衛と私の曽祖父が損を分担し,大阪時計製造株式会社は解散しました。その後,1905年に野田吉兵衛の持ち分を石原久之肋が引き受け,時計を造りかけたのですが,1909年に清算終了ということになりました。