東京芸術大学音楽部,同大学院を経てフランス国立マルセイユ音楽院首席卒業。
’83年東京芸術大大学院に再入学。’89年,論文「ドビュッシーと世紀末の美学」を執筆,学術博士号を取得。演奏と執筆を両立させる存在として注目を集める。著書多数。
本日は,私が研究しておりますフランス近代の作曲家クロード・ドビュッシー(1862~1918年)についてお話します。
ドビュッシーといいますと,「亜麻色の髪の乙女」「月の光」「牧神の午後への前奏曲」というポピュラーな作品も書いておりますが,いずれもフランス詩人の詩にゆかりの作品であります。「亜麻色」はルコント・ド・リールという高踏派の詩人の詩で,金茶色の髪,さくらんぼのような唇をした美しい少女のことをうたった詩です。「月の光」はポール・ヴェルレーヌの同名の詩,「牧神」は,象徴派の大詩人マラルメの「半獣神の午後」という詩にヒントを得たオーケストラ作品です。 ドビュッシーは,詩にヒントを得た作品をたくさんつくっています。それはどうしてなんでしょうということをこれからお話しします。
1871年,9歳ですが,労働者階級の初めての革命として評価されているパリ・コミューンが起き,父親がコミューン側に参加して捕らえられ,ベルサイユ近くの監獄に入れられました。一家は働き手をなくして,貧しい屋根裏部屋に引っ越して苦しい生活を強いられるのですが,そこで,ドビュッシーが後に詩人たちと出会うきっかけといいますか,神様のいたずらみたいな出会いがありました。
父親が監獄でシャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリーと出会い,この人がポール・ヴェルレーヌの奥さんのお兄さんに当たる人でした。父親は,音楽の才能がある息子の音楽の勉強についてどうしたらいいかとシャルル・ド・シヴリーに相談。じゃ,うちのお袋がピアノの先生だからスジを見させてみようかということになりました。
ポール・ヴェルレーヌの義理のお母さんモーテ夫人は,ショパンにピアノを習ったことがある非常にすぐれたピアノ教師でした。
ちょうどそのころ,ポール・ヴェルレーヌ夫妻がパリ・コミューンの混乱を避けてモーテ夫人の所に居候をしておりました。この時期にドビュッシーがピアノのお稽古を一生懸命にやって,たった1年でパリ音楽院のピアノ科に合格します,10歳でした。
シャルル・ド・シヴリーの導きで,当時最先端の詩人たちが集まった「黒猫」という文学酒場に,パリ音楽院の学生のころから出入りをしておりました。ドビュッシーとその詩人たちのかかわりは,恐らくこのときから始まったんじゃないかと推測しております。
パリ音楽院に入学しますと,先生の世話でいろんなアルバイトを紹介されます。1879年,17歳の夏にはロワールの名城シュノンソーの女主人に雇われております。主人が不眠症で悩んでおりまして,そのころレコードなどがありませんでしたので,不眠症を慰めるために,明け方までずっと寝室の隣でピアノを引き続けました。そういう豪華な暮らしというのを体験しまして,貴族趣味に目覚めるきっかけになりました。
18歳からの3年間は,チャイコフスキーのパトロンであるフォン・メック夫人に雇われます。また,18歳のときに,ヴァニエ夫人に出会います。一回りぐらい年上ですが,ドビュッシーの最初の恋人になります。
当時は,上流階級の夫人がサロンですばらしい歌声を披露して,いろんな作曲家の作品を初演したりしました。彼女も,歌い手としてはコロラトゥーラソプラノで,モーツァルトの「魔笛」の夜の女王のアリアのような非常に高いコロコロとした声の持ち主だったようで,ドビュッシーがそのころヴァニエ夫人のために書いた歌曲というのは,コロラトゥーラのように技巧を凝らした曲ばかりです。
1894年ごろ,ドビュッシーは「弦楽四重奏曲」など本格的な作品が初演され始めたころ,ある失敗をしてしまいました。上流階級の初演会で歌を歌ったテレーズ・ロジェというソプラノ歌手に結婚を申し込んで婚約が成立したのですが,実はドビュッシーには屋根裏部屋時代から一緒に住んでいるギャビーという貧しいお針子の愛人がいて,その存在が上流階級の方々にばれてしまったのです。そのため上流階級から追放され,テレーズとの婚約も破棄されてしまいました。
1899年,37歳のときに最初の結婚をします。妻はリリーといって,婦人洋装店に勤めるマヌカンでした。1902年,40歳のときに念願のオペラ「ペレアスとメリザンド」がようやく初演されまして,彼の絶頂期でありました。ここでまた人生の転機を迎えます。
彼が出会ったエンマ・バルダック夫人は彼の作曲の弟子の母親でしたが,名家の出身で,お金持ちの銀行家の夫人でした。彼は教養あふれる夫人に夢中になってしまいまして,1904年にリリーを捨てて,ダブル不倫のエンマと駆け落ちしてしまいます。
パリ16区という高級住宅街で長らくあこがれていた上流の暮らしが始まったのですが,実はそれには非常に無理がありました。彼女とのぜいたくな暮らしを支えるには,稼ぎが追いつかないということで,1908年から亡くなるまでの10年間というのは,経済問題との戦いでした。
しかも,心を許した友人たちとは離れて自分の中に閉じこもり,エドガー・ポーの「アッシャー家の崩壊」という怪奇小説に入れ込みまして非常に暗い音楽を書きつつ,それが結局うまくいかなかったりとか,そういう晩年を送ったんでございます。
ドビュッシー没後90周年ということで,歌手の方とか,語りの方を入れて「ドビュッシーとパリの詩人たち」という公演を5月24日に東京でいたします。お聴きいただけましたら幸いでございます。