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2007年10月26日(金)第4,182回 例会

大坂と石山本願寺

金 龍   静 氏

本願寺史料研究所
副所長
金 龍   静 

1949年北海道生まれ。名古屋大学大学院博士課程退学,同文学部助手。父の死去により北海道新十津川町に帰り,浄土真宗本願寺派円満寺住職。10年前から本願寺史料研究所所員,昨年から副所長。著書に「蓮如」「一向一揆論」など。

 レジュメをお配りしていますが,右側の地図が龍谷大学図書館に収蔵されている大阪の古地図で,昔の大坂を表す最古のものです。

 地図の丸印が現在の大阪城,いわゆる石山本願寺ができた所です。

 「大坂」という名前が最初に出てくるのは「明応5年(1496)秋,東成郡(こおり)生玉之庄内大坂」で,本願寺八代蓮如が隠居所を建てられました。

 京都の公家の日記では「尾坂」とか「小坂」とか,読み方も「おさか・をさか・おおさか」と,いろいろな発音をしています。

 古地図を見ると,天王寺から舌状に突き出た上町台地がある。その先っぽの小さな坂を「おおさか」と呼んだのです。これは,景観をそのまま表現したのでしょうが,石ころがごろごろして,田畑になりにくいような坂面でした。

支配権の及ばぬ所

 基本的には京都の鹿王院が領主である荘園の一画ですが,畑などない。したがって,荘園の領主権があまり及ばない所だったのではないか。

 戦国時代の山科本願寺は,湿地帯に建っていた。北陸の吉崎御坊,摂津の富田御坊なども立地条件の悪い,逆に言えば領主の支配権の一番及ばない場所を選んで,建てている,これが特徴です。

 蓮如上人は,この大坂に隠居されて3~4年しか生きておられません。「南無阿弥陀仏」の六字名号を毎日100幅,200幅書いたと言われます。その墾志で御坊を建てる。「聖なるものによって得た収入は,すべからく聖なるものに支出する」,中世カトリックの原則で「ポトラッチの消費」という概念がありますが,同じようなパターンで隠居所を建てたのでしょう。ここで,初めて歴史の中に「大坂」という地名が登場します。

域内中心地の誕生

 「大坂」が,どのように発展したか。当初五町四方の土地を寺内としました。1510年代に本願寺九代の実如上人が一時,隠居されて京都から移ってこられる。前門主が来られるので警護しないといけないと,摂津・河内・和泉の門徒団が動く。

 今は大阪府で一体ですが当時,初めて河内や和泉の門徒衆が摂津にやって来る。域内中心地が初めて誕生したのではないか。

 天文元年(1532),山科本願寺が焼き討ちされ,本願寺が石山御坊に移る。これから,信長に降参するまでの55年間,石山御坊が教団の本山の役割を果たします。

 この頃はもう,全国の門徒衆が大坂に集まって中心地という意識ができてきます。そして大坂が拡大していく。渡辺津,川を越えて天満橋などを寺内に併呑する。東成郡を越えて西成郡まで町場が広がる。支配者が違う所にまで同じ町場が広がっていくわけです。

 寺内町というのは,今で言えば個人の屋敷地ですが,それが非常に広くなったものです。個人の住宅は令状がなければ警察が入ってこられないが,当時もそうです。この屋敷地を拡大していく動きが,寺内町設置運動です。枚方,久宝寺など畿内各地にできますが,日本史上初めて,民衆からの町づくり運動が起きる。

 石山合戦,信長との戦いの対立軸は,この寺内町をめぐるものでした。寺内町がうまくいけば自発的なイギリス型の商業資本主義のようになったのではないか。これに対して,信長は上からの重商主義を目指した。教科書に信長の実績は「楽市楽座令」だと載っていますが,私は間違いだと思う。美濃加納,安土など特定の町場だけ免税にして,寺内は春秋の「段銭(たんせん)」,年2回の消費税をかける。でも,美濃加納や安土が商業中心地になったかというと,なっていない。楽市楽座令は,当時とそれ以降の民衆からは支持されなかったのです。

商都大坂の誕生

 石山合戦で本願寺が負けた後,秀吉は本願寺の跡地に大坂城を建てます。違う所に建てたら,大坂の人たちは本願寺の方に向かって手を合わせる。だから,次の時代の権威の象徴は,前代の権威の真上に建てなければならない。この秀吉の時に初めて「仏都大坂」が「商都大坂」に変わります。

 バリヤーノというイエズス会の宣教師が「日本人は戦国の100年で変わった。100年前は,権力者はあらゆる物を収奪し,すべからく分配するので貧しかった。ところが100年後,あらゆる物を収奪して,秀吉が黄金の茶室をつくった」と述べています。これが,商都大坂の誕生です。「もったいない」の仏都大坂の世界にプラスして,「もうかりまっか」の商都大坂が積み重なっていったのです。

 その後,久宝寺寺内町の指導者の安井道頓が,門徒団を引き連れて,道頓堀を開削します。西成の佃の門徒団が江戸に移り,地を築いて築地をつくる。北陸では蒲原湿原の乾田化,近江門徒の大坂移住もあって御堂筋の原型がつくられていきます。「身業(しんごう)の報謝行」ということで,こういう動きが一連のつながりとして,全国的に行われていきます。

 近世初期に別の町場だった天満も併呑して大坂三郷になり,明治になって天王寺・平野住吉も包括する「大阪市」が誕生します。同時に河内・和泉を包括する大阪府が誕生します。これが,大阪の歴史です。

 本来,小さい坂地の小坂,大坂から,この大阪府という大きな地名に育てあげた。地名がどうして大きくなったか考えると,やはりそこに暮らす多くの人々の無言の支持があって,ここまで地名を生かし続けた,と思います。