1949年千葉県生まれ。’68年早稲田大学入学。野球部4番打者として活躍し4年生で主将。’71年ドラフト2位で阪神タイガース入団。名二塁手として活躍。’83年引退し二軍監督。’88年一軍コーチ。’89年監督となり’92年セ・リーグ2位。’96年より野球評論家。’05年オリックス・バファローズ監督。翌年辞任し,同シニア・アドバイザーに就任。
私の拙い「運七分,実力三分」の野球人生を振り返って,お話しさせていただきます。
巨人と長嶋選手にあこがれて野球選手を目指しました。関西の阪神からドラフトで指名されてびっくりしたのを,つい先日のことのように思い出します。これが岐路でした。巨人は9連覇の真っただ中。二塁には土井さんという名手がいて勝てるわけがない。入団しても2~3年でクビになり,今ごろ何をしているかわからなかったような気がします。
現役の11年間に7人の監督にめぐり会えました。一番の恩人は3人目の吉田義男さんです。全く芽が出ない中村を,我慢を重ねて使い続けてくれました。巨人戦で僕は,2つエラーを続けてしまいました。交代だと思ってベンチへ下がろうとしたら,吉田さんがしかりました。「アホか。構わんからもう1つエラーしてみろ」。自信を失いかけた力のない選手に勇気を与える一言でした。その年,最高の成績を残せました。これだけの信頼と期待が選手を育てるのかなと実感しました。
阪神監督の2年目に10連敗を喫しました。責任を感じて辞表を出しました。ところが,三好一彦球団社長は「来年も君に任せた。頑張りなさい」と逆に励ましてくれました。
キザなようですが,男の背中は,感情,体調,考え方を如実に表すと言います。選手は監督の背中を見て動くとも。あるいはそのころから,監督・中村の背中が変わったのかもしれません。翌年,新庄,亀山を擁する新生阪神が,野村ヤクルトと最後まで優勝を争うまでに成長しました。信頼と期待がいかに大切かを,この2つの例で学びました。
選手としての中村は,順風満帆ではありせんでした。2年が終わって鳴かず飛ばず。心機一転して結婚しましたが,3年目も結果が出ない。監督に二軍行きを命じられました。傷心を抱いて着替えていたら,マネージャーが飛んできました。「レギュラーがけがをした。お前出るから,ユニフォームを着なさい」。
一枝修平さんが練習中に指に死球を受けたのです。僕の本当の恩人は,この球をぶつけた投手かもしれません。あのとき二軍へ行っていたら果たしてはい上がれたか,今の中村はあったかと,身の震える思いがします。
監督論を少し述べさせていただきます。
ある財界の雄が言われたそうです。「男として生まれたからには,やってみたい仕事が3つある。オーケストラの指揮者,艦隊の司令長官,プロ野球の監督。どれも指先一つで自己の存在,人間の証明を表現できる」。
監督の一番の使命は,個性的な選手たちの力を集約し,チームとして最大限の効果を表すことです。人心掌握が大事です。それについてラ・ソーダ元ドジャース監督が言っています。「手で鳩を握るがごとし。強く握ると死んでしまう。弱く握ると逃げてしまう」。味わい深い言葉です。
心すべきことは,「公平を保つ」「私心を持たない」「率先垂範」です。公平という意味で,こんなことがありました。
いま阪神を率いる岡田監督は92年当時,ミスター・タイガースと言われ,4番を任せていました。だが,どうしても結果が出ない。球を逃げながら見送って凡退を繰り返す。その姿が余りにも士気に影響すると考え,あるとき決断して代打に亀山を送りました。
試合後,僕はすぐ岡田君に「明日,スタメン4番行くぞ」と伝えました。しかし,できた溝は埋まらず,彼は阪神を去りました。翌年にオリックスの仰木監督が手を差し伸べてくれて現役を続け,今日あるわけです。
岡田君は本当にすばらしい指揮官になり,伝統ある球団を十二分に率いています。学校の後輩でもあり,大変うれしく思います。
もう一つの仕事は,人を育てることです。「ほめ七分,しかり三分」という鉄則があるそうですが,あくまで机上論です。例えば,新庄は,ほめてほめちぎって乗せて使うタイプ。頭ごなしに「あれもこれもだめ」では横を向いて力を発揮できない。一方,亀山は,七分ほめると,それこそ木に登ってしまいます。七分しかって三分ほめるのがいい。
藪投手は,高速スライダーが良くて新人王になりました。しかし,緩いカーブが一・五流でした。秋のキャンプで来る日も来る日も練習させ,立派なカーブを取得しました。ところが今度は,スライダーが低速の一・五流に落ち,トータルすると成績が下がってしまいました。選手を長く同じ力を保って生かすのは非常な苦労があるという例です。
松井君の,こんな思い出もあります。
92年暮,巨人は長嶋監督になって「松井が欲しい」と言い出した。ドラフトで4球団が抽選になりました。それまで僕は4~5回上を引いて,どうも確率が悪い。今度は下を引こう,と思っていました。当日,阪神は3番目。初志を貫徹しましたが,上が松井君でした。長嶋さんが残り福を拾っていきました。
今や「世界の松井」になりましたが,阪神に来ていたら,浜風が吹く甲子園で,あれだけ本塁打は量産できなかったでしょう。大リーグに行けたか疑問が残ります。彼は,そうした意味で僕に感謝しないといけない。しかし(阪神ファンには)言葉もございません。
良き指導者,良き先輩,後輩,恩師,恩人に恵まれて,ここまでやれたような気がします。これまでの経験を生かして,オリックス再建へ,微力ですが心血を注ぎたいと思います。きょうをご縁に,パ・リーグはオリックス・バファローズをさらに注目していただければ,大変ありがたく思います。