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2007年8月24日(金)第4,173回 例会

近年の発掘成果から
-難波宮について-

長 山  雅 一 氏

流通科学大学情報学部
教授
長 山  雅 一 

1941年まれ。大阪市立大学文学部で日本史を専攻し,山根徳太郎氏主宰の難波宮跡発掘調査に参加。’70年同大学大学院文学研究科修士課程終了。’72年大阪市教育委員会学芸員。同宮跡発掘調査と保存業務に従事。主任学芸員,文化財保護課課長代理。’93年流通科学大学情報学部教授。日本史,日本都市史,文化財保護論,日本事情など担当。

 今年は,山根徳太郎先生が難波宮(なにわのみや)の発掘調査を始められてから53年目にあたります。一番すごい発掘は,一辺6m角の範囲を調査して大極殿の正面階段を掘り当てたことです。近畿財務局がその真上に合同庁舎を建てようとしました。「まかりならん」と山根先生は反対運動に立ち上がられ,大極殿は保存されることになりました。

 本日はその難波宮の最近の発掘について,話をさせていただきます。

前期と後期の2つの遺跡

 大阪市の中心部,上町台地に難波宮跡公園があります。約12万㎡が史跡に指定されて,約5万㎡が整備されています。北西に大阪歴史博物館,北東に大阪城天守閣があります。宮殿は,広く考えると1km四方ぐらい,少し堅実に狭くとる説でも750m四方ぐらいという非常に広い範囲にありました。

 前期と後期,2つの時代の遺跡があることがわかってきました。

 前期難波宮は「日本書紀」の中で長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)と呼ばれています。7世紀の大化の改新の後につくられたと考えています。天武天皇の朱鳥元(686)年に火事で全焼しました。中国の都・長安と同様,北極星をにらんで真南北の方位に従って建設されました。都としての意識が非常にはっきりしていたことを示すものと考えます。

 調査を始めたころは,もっと小さい宮殿だとみられていました。整然としたものであることが次第にわかってきて,驚きの声が上がりました。色々な行政施設がありました。建物が密集している場所があり,大蔵省に先行するものと考えられています。現在は歴史博物館の地下にあります。宮殿の建物の柱はすべて,土に穴を掘って埋め込む掘立柱です。屋根に瓦は使われていません。

 その同じ場所から,前期の宮の範囲にすっぽり収まる形で,後期難波宮という新しい遺跡が出てきました。中心の建物は礎石の上に柱を立てています。お寺の建築と同じです。屋根には瓦が使われました。

 聖武天皇が再興を命じたのです。内裏には平城京とほぼ同じ規模のものが建てられました。しかし,桓武天皇は,長岡京へ移るときに難波宮の柱も礎石も瓦も再利用したようです。後期の宮跡に基壇の石はほとんどなく,引っこ抜いた跡がきれいに出ています。

 難波宮はこの2つの時期合わせて約150年間存在しました。首都として機能した期間はわずかで,あとはサブの都だったようです。

「最古」の万葉仮名木簡

 昨年は,少し変わった発見が2つありました。まず,上町台地の昔の谷から,万葉仮名らしい文字を記した木簡が出土しました。  「皮留久佐乃皮斯米之刀斯…」。「はるくさのはじめのとし…」と読めます。長さ18.5cm,幅2.5cm。同じ土中から出た土器から,7世紀中ごろのものと判断されました。

 国語学者や万葉学者は驚きました。万葉仮名は670~680年代にかけて柿本人麻呂らによって整備された,という通説から,一挙に30年もさかのぼることになったからです。

 「はるくさ(春草)」は枕詞らしい。この下にいろんな歌がつけられるのではないかと大阪市と毎日新聞が,新作万葉集を募集しました。小学生から90歳代まで,1479首が寄せられました。一番受けたのは佳作になった,

 春草のはじめの年に友だちと

         車の形の雲にのりたい

          高槻市 小2 女子

 でした。ほほえましい。こんなふうに,遺跡や古代人に想いをはせていただきたい。

 もう一つの発見は,台地の東端の東方官衙(かんが)から出た建物跡です。周囲に廊下が巡り,石で整地してあります。格の高いもののようです。東に広がる平野部を望め,建築学者は,背の高い建物とみています。時代は前期の宮。「楼閣」と考えられます。

 「藤氏家伝」という藤原氏の歴史を記した書物に,中大兄皇子が天智天皇に即位し,群臣を集め,琵琶湖を望む高台の建物で酒を飲んで楽しんだ,とあります。

 古い世代の人は,仁徳天皇高津宮を思い出されるでしょう。高いところから見ると,一般の人たちの生活がうかがわれ,それで税を免除したり,税をかけたりすると「日本書紀」に書かれています。そういう場所を何となく考えさせてくれる遺跡でもありました。

世界へ大阪の文化発信を

 幸い東方官衙地域は,文化庁によって史跡として整備されることになりました。すぐ東に大阪市が,元々道路をつけるために調査をしたのを,遺跡が出てきて計画を変更し,発掘して遺跡の性格がはっきりわかりました。市もレベルの高い仕事をしたと思います。もっと宣伝していいんじゃないでしょうか。

 大阪市は,いろいろなところに重要な遺跡を残しています。最大のものとして,高速道路下に難波宮の一番中心部があります。それらを将来,遺跡として取り込み,大阪の文化度を世界にアピールしていただきたい。

 7年前にイタリアへ行きました。フォーロロマーノという古代遺跡が広い道路を挟んで残っていて,その道路を掘り上げて遺跡を続けて保存する,という意気込みの看板を見ました。韓国のソウルでは,高速道路を廃止して古い景観に復元したところがあります。

 山根先生の意気込みを感じる年になってまいりましたので,先生のご遺志を継いで,これからそういうことをやっていきたいなと思っています。ぜひとも皆さんのご協力がいただければ,より心強いと思います。