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2005年12月2日(金)第4,094回 例会

菊人形の現状

川 井  ゆ う 氏

菊人形研究者 川 井  ゆ う

1964年大阪府枚方市生まれ。
'98年博士(家政学)武庫川女子大学大学院 現在武庫川女子大学非常勤講師。
主な著書:「菊人形ガイドブック」・「迫真の境地」「ひらかた大菊人形」等。

 本日は,菊人形の歴史と現状についてお話しさせていただきます。まず,菊人形の定義を明らかにしておきます。等身大の人形を数体用い,菊の衣装をつけた人形が物語の一場面をあらわす,そういうものを菊人形と呼んでおります。

(以下,スライド映像とともに)

不可能に挑戦する菊人形づくり

 1体の菊人形は,菊師・胴殻師・人形菊栽培師,そして人形師と,多くの方々によって出来上がっています。菊人形は,まず骨格がつくられまして,割竹を芯にして周りの藁を糸で巻いた「巻藁」を使って,菊人形の下地となる「胴殻」というのをつくります。

 これは胴殻の後ろ姿です。江戸時代にできたものですが,非常に緻密な生産過程を持っております。お尻のふくらみや肩幅や腕の広さなど,緻密につくられています。どのような幅の袖であるとか,その時代,時代で異なりますので,尺貫法で曲尺を用いてつくられています。菊という生きた植物でつくられた人形で,不可能に挑戦している一例です。着物は人が着ることによって,腕の部分とか肩の部分とかに静かな体の線というのが出てまいります。そういうことが,下地の胴殻の段階からつくられているということです。

 次に「菊付け」ですが,「人形菊」という菊人形のためだけに栽培された菊が用いられます。根のついたものを「根巻(ねまき)」と言いますが,根に水苔を巻きましてイグサか藁で包み,この1つを一玉(ひとたま)と呼びます。この玉を一つ一つ胴殻の中に入れて,菊付けがされます。枝を曲げることによって,身体のふくらみや人が着物を着た状態をあらわしています。次に,人形師さんが頭や手足,衿や帯などをつけて完成するわけです。

 この菊人形は遊女としてつくられています。体の線の膨らみ,膝や太股の感じがおわかりになるかと思います。非常に艶かしい姿も菊師さんの腕一つで,お侍さんの場合では勇壮に,また女性の場合では女らしくという技術があります。菊付けして3日,4日と水やりをしていますと,開花して衣装も変化をしていきます。そして1週間から10日で着せ替えをします。リピーターをあきさせないためで,極端に言えば,朝,夕方,また1週間後に訪れてもイメージの違った菊人形が楽しめるわけです。

 菊人形見物という娯楽は総合技芸です。これは大道具師さんが建築中の大道具ですが,この下にあるのが等身大の菊人形ですから,かなり大きなものであることがわかります。舞台装置も,紅葉の葉っぱや桜の花,すべて手作業でニセモノが張られて舞台をつくります。動きがない菊人形に動きを与えるのが照明で,効果的に,かつ菊にダメージを与えないように通気性にも配慮された特別の技術です。美術装置師さんは背景の絵を描きます。大道具・美術装置・照明などが一体となって菊人形が美しく見えるように,「背景に目を奪われるような絵を描いてはならぬ」と言われているそうです。

菊人形見物は総合技芸の娯楽

 江戸時代半ば,大衆に菊栽培が流行いたしました。菊栽培技術が発展していきますと,菊をさまざまなものに見立てようという動きが,文化年間(1804-1818)以降からあらわれてきます。これが後の菊付け,人形劇へと発展します。明治時代には興行として入場料をとって見せる形態となりました。東京の団子坂が早いようです。

 これは団子坂の菊人形展の一場面ですが,質素な小屋の中に,しかし,非常に立派な大道具をつくって菊人形を見せました。明治20年代には名古屋の黄花園で菊人形展が行われました。最初は団子坂をまねていたのですが,スケールを大きくして全国展開していくわけです。明治39年に大阪分園,神戸分園をつくり,明治42年に両国の国技館に東京分園をつくりました。明治35年,三河の吉浜細工人形というのは江戸時代からのものですが,そこの細工師さんの腕を見込んでスカウトします。名古屋の黄花園の菊人形展というのは,名古屋の制作者と三河吉浜の制作者が協力して行われるという形態になりました。

明治後期,鉄道会社が菊人形展

 続いて興行主の推移です。植木屋さんや菊好きな人が興行していたのが,大道具師さん,人形師さん,美術装置師さんらの興行になり,明治末年には鉄道会社の経営というのが始まります。明治30年代には阪神電鉄が鳴尾百花園で,明治40年に南海鉄道が住吉公園の高灯籠の下など,鉄道会社が菊人形展の人気に目をつけて興行しました。京阪電鉄の菊人形展は明治43年です。枚方大菊人形というのは,明治43年に香里遊園地で黄花園が興行,翌年から菊楽園が興行し,名古屋から岐阜へと興行主が変わります。大正元年に枚方遊園地,現在の地に来まして,リピーターが大挙して押し寄せたということです。

 京阪電鉄の菊人形展というのは,初期の純粋の興行の形態を踏襲している唯一の菊人形展です。継続的な技の伝承と蓄積がここにある。1998年には第1回菊人形サミットに市長や町長の方々が集まって,もっと積極的に菊人形をサポートしていこうという会議が行われています。人形浄瑠璃や歌舞伎には国の支えがあったりするわけですが,菊人形の場合は160年の歴史があるにもかかわらず,なかなか注目されてきていないという実情があります。このまま放っておきますともう消えていくしかない。枚方で大正元年から興行が行われて96年目を迎えています。あと4年で100年ですが,なんとか続けられないものでしょうか。日本人だけでなく,海外のお客様にも喜んでいただけると思うのです。