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2005年7月22日(金)第4,078回 例会

天神祭の謎

武 田  佐 知 子 氏

大阪外国語大学
外国語学部国際文化学科比較文化講座
教授
武 田  佐 知 子

1948年生まれ。早稲田大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程史学専攻修了。専門分野は日本史学・古代史・服装史・女性史。サントリー学芸賞受賞,濱田青陵賞など受賞。奈良県自然環境保全審議会委員,大阪府近つ飛鳥博物館運営協議会委員等も務める。

 今日は「天神祭の謎」という話をいたします。ここ数年,天神祭りの船,奉拝船に乗り続けています。東京の高校のクラスメイトとか日本全国から友達を集め,天神祭りに案内しています。

 天神祭りの楽しさは,橋の上や岸から見ていてもわからない,やっぱり船に乗って行き交う船と大阪じめを交わし,花火を見上げ,そして川面を過ぎる風に吹かれながらビールを飲む,これが本当に最高,大阪にいてよかったと思う瞬間なのです。

祭りは歴史の中で変わる

 私の母は大正2年,大阪天満宮のほど近く,天神橋筋3丁目の漆器屋の生まれです。広島で女学校の先生をするまでずっと天神橋筋に住んでいました。その母が小学校時代からずっと日記を書いており,7月25日の天神祭りの話が必ず出てきました。当時は,今のように楽しみの多くある時代ではありません。お正月が終わるとすぐ天神祭りを待つという子どもたちの心情がよくわかりました。

「宵宮の太鼓の響く中,新調した着物を着て,遠くまで祭り提灯がともされた軒先をモミの木のさしてある花瓶を見ながら歩いた」

「天神祭りの船渡御を端建蔵橋の上から人々の肩越しに眺めて,それから松島まで電車に乗って行って,御旅所に御鳳輦(ごほうれん)が入るのを見届けた」といった記述がありました。船渡御のコースも大きく変わっており,今は天神橋からずっと都島のほうへ上っていきます。

 祭りというのは,長い歴史の中で本当に劇的に変化していくものです。実は昨日まで下北半島の恐山の大祭に行っておりました。恐山と言えばイタコですが,恐山のイタコは1922年以前はいなかった。1950年の戦争直後の記録に初めて出てくる。かつてイタコを境内から排除して境内の入場料を取ろうと思ったら,恐山に入ってくる人が全くいなくなり,もう一度イタコを境内に入れたという顛末も聞きました。

 私もおばあさんのイタコさんから,10年前に亡くなった母のことを聞き,ちょっとほろりとさせられました。生きている者にとっての癒しとしてイタコの口寄せというのは,随分意義があるんだなと実感しました。天神祭りも今の7月25日になったのはそう古いことではありません。江戸時代には菅原道真の生誕の日にちなみ,旧暦の6月25日に行われていました。さらにさかのぼる室町時代には天神社の祭礼というのは7月7日,つまり七夕の日に行われていたらしいのです。

 天満宮の側には天満三池と申しまして七夕の行事に関わる池がありました。星合池と七夕池と明星池という3つの池ですが,そのうち星合池は,牽牛・織女の星が逢瀬を迎えるという意味の池です。天神祭りはそうした七夕の信仰と結びついているようです。

起源は疫神を流す御霊会

 祭りの起源ですが,「日本紀略」という資料によると,正暦5年(994年),京都の船岡山というところで疫神を流すため非常に規模の大きい御霊会が行われました。大変大きな神輿が2つ朝廷の手によって作られ,船岡山に安置されました。

 そこで人々は楽人を呼んで音楽を奏し,都の男女幾千万が幣帛(へいはく)をもって祭り踊り,神輿・神酒を飾りまして,菅原道真の祟りと噂された疫病退散の祈願をしたのです。そして終わった後に,神輿・神酒を難波の海に流しました。私はこれが天神祭りの起源ではないかと思います。

 神輿が流されたのは今の天満宮のある辺り,天神橋・大江橋・渡辺橋などではないかと思います。そこには大将軍社と言われる小さな社があったらしい。その大将軍社が恐らく正暦5年の御霊会と結びついて,大将軍社に菅原道真が祭られることになったのでしょう。 

 大将軍社の祭りとしては,7月7日に行われていた可能性があります。七夕の祭りは,実は罪やけがれを払って,それを形代(かたしろ)に移して水に流す,そうした性格がございます。七夕の祭りと船岡山の御霊会と疫神としての菅原道真が合体し,天満宮という形で姿を現してきたのではないでしょうか。

 そもそもお祭りには夏祭り,秋祭りがあります。秋祭りはほとんどが収穫祭で,夏祭りはほぼ疫病退散を願っての祭りです。日本の3大祭りとされる天神祭り・祇園祭り・神田祭りはいずれも夏祭です。そうした都市祭礼としての天神祭りが菅原道真と結びつくことで,ずっとこのように大阪の都市の発展を支えてきたのだと思います。

新しいサポートで発展

 天神祭の船のコースですが,以前は雑喉場(ざこば)から戎島,松島へというふうにどんどん御旅所も変わっております。

 地盤沈下で下流に行けなくなると,今度は上流であまり船の高さにもこだわらなくてもいいところに設定して,その船の祭りそのものを橋の上から人々が注目できるようにして,お祭りに参加できる人々の人数を広げていった。そういうことで,天神祭は100万人の人出と言われます大阪最大のお祭りになっていったのです。

 祭りというものは,一つ古いことにこだわるのではなく,新しい形の祭りの形式を編み出していくことによって,より発展していくのです。天神祭は講組織で支えられているところがあるのですが,なかなかその講が,天神橋筋界隈に住んでいる人が少なくなっているため,維持が非常に難しいとのことです。これもまた新しいサポートの方式を生み出していくことで新たなる発展をしていくのではないかと思っております。