1941年大分県生まれ,京都大学法学部卒業。65年4月京阪電気鉄道(株)入社。95年6月取締役,99年6月常務取締役,01年6月代表取締役社長。92年著書『琵琶湖周航の歌の世界』(琵琶湖周航の歌の研究論文と小説『我は湖の子』を掲載)刊行。
各地で講演を行うなど,琵琶湖を中心に水空間研究家として活躍中。
当クラブ入会:2001年8月PH準フェロー,準米山功労者(鉄道運輸業)
今日は別人格でお話させて頂きます。琵琶湖周航の歌は京大ボート部の部歌であり,三高歌集の中にも入っていますが,いろんな謎がありまして,私はその究明をライフワークにしております。その一端をご紹介します。昭和46年,加藤登紀子が「琵琶湖周航の歌」を歌い全国的に有名になりました。私どもボート部の学生も卒業生も部歌ではなく青春哀歌という認識です。ただボニージャックスが昭和36年ソノシートに吹き込んだのはゴムまりが弾むような明るい響きがありました。
琵琶湖は一見穏やかですが,突然荒れ狂います。周航は大変危険な旅であり,昭和16年には金沢四高の学生が遭難死しています。最初の周航は明治26年で,三高の学生はまさに冒険に乗り出すんだという悲壮感漂う文章を残しています。三高漕艇の歴史では大阪堂島が発祥地です。明治13年に大阪中学ができ,天満橋の八軒家を起点にボートを始め同19年第三中に改称,同22年京都に移ります。同25年三高水上運動部創設,そして翌年第一回の琵琶湖周航となります。
琵琶湖周航の歌ができたのは大正6年6月です。当時人気のあった叙情詩人有本芳水の詩集「われは旅人なり…」に歌詞が似ており詩集をもとにつくったのではないかと思う。そんな大正ロマンの中で周航が行われ,一泊目は浜大津,二日目近江今津,それから長浜,そして帰ってきます。年により場所は変わります。そして毎年やる訳ではありません。危険だったからで,私も一回だけしか経験しておりません。その近江今津の地で小口太郎という人が「こんなものどうだ」と周航の歌を披露しました。これが三高寮歌になり,昭和2年の歌集に作詞作曲・小口太郎と出ています。小口は長野・岡谷の出身,大正5年諏訪中学から三高に進学,水上部,言論部に入っています。東京帝大物理学科に進み,有線および無線の多重電信電話法の研究で特許を得て,卒業後は航空研で電子顕微鏡の研究をしていたのですが,28歳で夭折しています。写真を見ると大変男前で,この人なら周航の歌をつくるだろう,つくったのは間違いないと思ってきたのです。
私は社会人になっても琵琶湖周航の歌を歌っていましたが,ある時「素人がこんな歌を本当につくったのか,おかしい」と思ったわけであります。同じように考える者が沢山いたのですが,私の大先輩の堀さんという方が「この曲には実は原曲がある。それは『ひつじぐさ』だ」と突き止めました。それは当時の音楽界という雑誌に掲載されていたもので「吉田千秋の作曲」と書かれています。以来私は謎解きのとりこになっています。
その吉田千秋とは誰なのかがまたわからなかった。堀先輩の調べで「吉田は東京・新宿から新潟へ引っ越した」ことが分かった。ある時,今津の役場の方が新潟の新聞社に尋ね人を依頼したところ,「私の兄だ」という人が現れました。新潟県新津市に実家があり,私も飛んで行ったのですが,千秋のお父さんは有名な歴史地理学者の吉田東伍・早大教授で,その長男でした。
吉田家には新潟大学教授をされている弟さんがおられ,旧家で蔵には千秋の遺品が多く残され,それを見せて頂きました。庭にはひつじぐさが咲いておりました。
新津市の合唱団が歌う「ひつじぐさ」のメロディをここで聞いてもらいますが,琵琶湖周航の歌とそっくりでありまして,これが原曲ということがお分かり頂けると思います。大正4年の音楽界8月号に「ひつじぐさ,吉田千秋曲」となっております。千秋の作曲がはっきりしまして,最近のカラオケ屋でも小口太郎作詞,吉田千秋作曲とされているところが多くなっています。
次に「千秋にこんな曲がつくれたのか」との疑問が湧いてきました。大正7年,千秋が音楽界に「高嶺の夏」という曲を発表していますが,それは魅力的なものではないので,いよいよ「ひつじぐさを本当につくったのか」と疑っているわけです。「ひつじぐさ」が発表されたのが大正4年,小口太郎が今津の宿で披露したのが大正6年,2年の差があります。当時はテレビもラジオもなかった。どうしてこの曲が京都の若者の心をとらえたのか。歌の伝わり方とスピード,どんな媒体があって全国的に有名になったのか,大変興味がそそられるところであります。
当時,大変はやった中山晋平の「カチューシャの唄」は大正3年ですが,芸術座の全国公演があり,レコードもあった。それで広まったのはわかるのですが,ひつじぐさが三高生の心をなぜとらえたかはよく分からない。
ひつじぐさが吉田千秋のオリジナルだったのかといえば,恐らく違うと思っております。
明治43年,逗子開成中学生の遭難死を悼んで三角錫子が「真白き富士の嶺」をピアノで即興披露したといわれています。ところが翌年の音楽界に「実はあれは私の曲ではありません」とお詫びの原稿が出ていました。もとはガードン作曲のアメリカ南部の賛美歌だったのです。当時は,詩も曲も人様のものを模倣したり借りたりしても何の問題もない時代だったのです。「庭の千草」「蛍の光」など海外の音楽が日本のメロディとして定着しました。そういう経緯も踏まえ「琵琶湖周航の歌」も「ひつじぐさ」もあるいは賛美歌ではなかったか,というのが私の疑問であります。