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2025年3月7日(金)第4,955回 例会

やらな、しゃーない!1型糖尿病だからできたこと

岩 田    稔 氏

株式会社Family Design M
代表取締役
岩 田    稔 

大阪桐蔭高等学校在学中の2001年1型糖尿病発症後,社会人チームへの内定は病気を理由に取り消される。’02年関西大学進学,’05年阪神タイガース入団。’08年ローテーション入り,初勝利・シーズン10勝を挙げる。’09年WBC日本代表として優勝に貢献。’21年引退後,’22年阪神タイガースコミュニティアンバサダー就任。1型糖尿病啓発活動を行い,(株)Family Design M設立,解説者としても活躍中。

 元阪神タイガースの岩田稔です。引退して4年目になります。今日は自分がどうプロで戦ったか,1型糖尿病でどう頑張ったかをお伝えします。

やんちゃな小学生がPL学園に勝つまで

 僕は大阪府の守口市出身です。子どもの頃は力が強くやんちゃでした。小学校1年生で野球のチームに入り,めちゃくちゃ楽しくてのめり込みました。3年生の時,背番号31番をもらい,監督から掛布やな,と言われたのですが全然わかっていませんでした。熊本出身の両親の影響で,僕はゴリゴリの巨人ファンだったのです。卒業文集には「読売ジャイアンツに入って,阪神タイガースを倒す」と書いたほどでした。
 中学生になると早く硬式ボールを握りたくて,門真市の門真シニアリーグに入りました。OBだった元中日の今中慎二投手みたいになりたいと思ったのです。ただ,弱いチームで必ず1回戦で負けていました。
 高校は,プロ第1号となった今中さんの出身校の大阪桐蔭高等学校に行きました。当時,最強だったPL学園に行きたかったのですが,チームが弱すぎて誰も声がかかりませんでした。監督は現在,甲子園で一番勝利数を上げている西谷監督ですが,僕が入った時は1年目でした。僕が真面目にプレーしていても,血気盛んな先生はプレーが遅いとか,気持ち入っているのかとか,しきりに指導します。僕は認めてもらうためにもしっかりやるという自覚が芽生えました。僕たちは秋の大阪府予選で,後の近鉄・朝井,ロッテ・今江,阪神・桜井などがいたPLに勝ちました。しかし近畿大会の2回戦でオリックスやメジャーに行った平野がいた鳥羽高校に負けました。

発症して甲子園に行けず大学でリベンジ

 僕の体に異変が起きたのは冬の練習の時でした。痩せてユニホームがガバガバになり,のどは渇き,トイレが近くなり,なんでだろうと思っていました。年明けに行った病院で1型糖尿病と言われました。生活習慣などは関係なく突発的に起こる病気で,僕の家系に糖尿病はいませんし,本当に不運でしかありません。目の前が真っ暗になって塞ぎ込んでいましたが,主治医の先生が1型糖尿病だったビル・ガリクソンというアメリカのピッチャーの「ナイスコントロール!」という本を紹介してくれました。本を読んで,血糖コントロールさえすれば大丈夫だとわかり,すごい勇気をもらいました。
 でも糖尿病で全く体が動かず,発症後,春と夏の大会で負けて甲子園の夢は絶たれました。その後,行こうとしていた企業からも1型糖尿病だから内定を取り消されたと西谷先生から聞きました。ものすごく腹が立ちましたが,確かに発症してから野球ができていませんでした。
 次にプロを目指すならば進学しかありません。僕の進路をふさいだ企業を見返してやろうと,関西大学に行って4年間必死に練習しました。毎日のウエイトトレーニングで体重も戻り,球速も速くなり,3回生で149キロを出せました。そして4回生のオープン戦の練習試合の相手に,あの社会人野球チームとあたりました。先発を任され,気持ちを引き締めて投げたところ,過去最高のピッチングでピシャピシャに抑えられました。肩で風を切りながら,ざまあ見ろ,俺を取らなくて後悔したやろ!という気持ちでいっぱいでした。
 試合の結果,いろんな球団から話が来ました。横浜は中華街のうまいものにひかれ,日ハムはススキノに悩み,ソフトバンクは親戚の応援の来やすさを考えました。最後がタイガースでした。僕は大学生の時に病院を変えた途端,血糖コントロールが乱れて大変だったので,病院は変えたくないと強く思っていました。また,担当スカウトが伝説の剛腕ピッチャーだった山口高志さんで,大学の先輩でした。この縁しかないとタイガースに決めたのは2005年でした。甲子園の最前列で優勝の瞬間を観戦しながら,今の嫁さんに「胴上げとか優勝のシーンを見せるように頑張る」と言っていました。

タイガースでも血糖値で苦労した

 タイガースの入団会見では,ガリクソンのような希望の星になって,1型の子どもたちと家族を助けたいと話しました。口だけと言われないよう,必死に練習して,何とか3年目に開幕ローテーションに入り,2戦目で初勝利を挙げました。その年に2桁勝ち,翌年のWBCにも呼ばれました。球団で必死で練習していたのでWBCはよくわかっていませんでしたが,2連覇に貢献できて,いい経験をさせていただきました。
 タイガースでは通算60勝82敗という何とも言えない数字でした。僕は立ち上がりが悪かったのですが,それは血糖値の問題でした。値が落ちるのを考えて最初は200くらいの高めにするのですが,投げて打たれて気持ちが高ぶってベンチに戻ったら逆に350くらいになり,体が動かず,たくさん失敗しました。そんな中,1型糖尿病の患者さんから「僕たちは岩田さんが一軍のマウンドに立っている姿だけで救われます」というファンレターをいただいて,もっと頑張らなあかんと思いました。そこで引退の4年前に低血糖気味に抑えてみたところ,めっちゃ抑えられました。早く気づいていたら100勝できて,給料も3倍になっていたかもしれません。
 16年間タイガースでプレーできましたが,悔いが残ったのは優勝できず,嫁さんに言ったことが叶えられなかったことです。
 今は1型糖尿病の子どもたちを救うために全国で講演したり,患者会や学会で勉強したりしています。子どもたちには,なんでもできるからチャレンジして,と声をかけています。自分もこの間の大阪マラソンにチャレンジして無事完走できました。
(動画とともに)