1957年生まれ。関西学院大学商学部卒業。’80年(株)生駒時計店入社。2003年代表取締役。’07年(株)生駒ビルヂング代表取締役。船場近代建築ネットワーク代表。
1999年当クラブ入会。雑誌委員長,S.A.A.等を歴任。2015~’16年度幹事。’16~’21年度地区米山奨学委員会。’19~’21年度副委員長。’21~’22年度地区副代表幹事。
私は入会してから23年目になります。そして私の父は,昭和39年から38年ちょっと,そして私の祖父は昭和28年から約25年間,当クラブの会員でございました。そして,その祖父の叔父に「生駒吉之助」という人物がおりまして,この人は大正14年から戦争でクラブが一時解散するまで,大阪ロータリーの会員でございました。この人物が本日の主人公,「キチ」でございます。吉之助は,(生駒時計店の)創業者の五女の婿養子として生駒家に入った人で,元は福岡県人です。吉之助は大正14年,創立3年目の大阪RCに入れていただくこととなりました。
吉之助が入会したときの会長は,三代・長谷川銈五郎,幹事は福島喜三次,名だたる会員の中で,吉之助は一商店の当主ですらなく,一介の会員に過ぎません。どうして「キチオブオーサカ」と言われるようになったのか。国際ロータリーは当時すでに毎年国際大会を開催しておりました。「十周年記念誌」によりますと,「代表者を送るということはなかなかの苦痛」。そんな中,吉之助が1929年(昭和4年)のダラス国際大会に,大阪ロータリーの代表として出席することとなったのです。「十周年記念誌」では「ついに生駒君の奮起を得てダラス大会に直接代表者を送り,これがまた生駒“吉”君の如才なき外交手腕と相まって異常なる好結果を納め,日本のロータリアンに“吉”あり,との世評をロータリーワールドに高めたのであった」。吉之助は早稲田を出ていますが,留学経験はおろか渡航経験もなく,特に英語が堪能だったわけでもありません。そんな吉之助が,どうしてそこまで書かれたのでしょうか。順を追ってみたいと思います。
吉之助は,昭和4年5月5日,横浜から出る船に乗るために,神戸の住吉駅を出発いたします。まとまった報告は6月5日付の手紙でした。幹事は,おもしろい手紙が到着しましたから掲載しますと,何と6千文字を超える手紙をそのまま会報に掲載いたしました。
「生まれて初めて外国の土地を踏みます。変な気持ちでした。非常な滑稽と苦心の末,散髪し,シアトル目指して走る乗り合い自動車に乗り込みました」。シアトルから列車です。「サンフランシスコに着くなりロータリークラブを訪問し,その夜のダラス行きの『ロータリー・スペシャル・トレイン』に乗りました」。これはサンフランシスコのクラブが列車にピアノまで積み込んだ特別列車。乗り込んだのはロータリアン約150名です。「皆から非常にかわいがられました。車中で余興に加わらせられるやら,歌を唄わせられるやらご婦人のコートを借りて,『何をくよくよ川端柳水の流れを見て暮らす』と都々逸を自分で唄って踊りましたところ,これが大層皆の気に入りまして,夜集まると,またやれとの催促。これを繰り返しました。そのたびに割れるような喝采。『キチオブオサカ』は一躍150の親しい友ができました」。途中観光しながら,ダラスまで4日間の道行きでございました。5月26日午後,列車はようやくダラス駅に到着します。
「数百の夫人・令嬢らから割れんばかりの拍手を浴びました。この時はただ感極まって涙でした。すぐ大会会場でのコンサートに案内され,会場にて(国際ロータリー会長の)トム・サットン氏に『明日から楽しい日をエンジョイしましょう』と言われました/その夜,オーバーシーズコミッティーのジョンストン委員長が,『アメリカの家庭を見たまえ』と言って,邸へまいりますと,飲めや踊れの大騒ぎ,これにはちょっと面食らいました。しかし,私もまんざらキライではないから,部屋の濃厚な空気に溶け入り大いにやりました/実際,私は皆様から好かれました。首に吸いつかれるやら,手を引かれるやら,しまいには,ナンボナンデモちょっとあまり赤裸々で少しイヤになりました」。翌日は開会式。「5月27日列車で出会った人々から声をかけられつつ,午後2時過ぎ,大会初日に無事列席いたしました」。
「『キチーオブオサカ,オハヨー,コンニチハー』と皆から大声を浴びせかけられ,ホテルロビーでも,道歩きます時でもつかまえて歩かせません」―こんな報告でございます。
こうしてダラス大会が終了してから,吉之助は旅を続け,今度はヨーロッパにまいります。ヨーロッパでは,ロンドンを皮切りに3ヵ月ほどかけて回り,その後,シベリア鉄道でウラジオストックへ。神戸に着いたのが11月17日でしたから,半年を超える大旅行でございました。
ところで吉之助は,入会の翌年,誕生日の内祝いとしてクラブの皆様に「勧善示蒙家職要道(かんぜんじもうかしょくようどう)」という書物をお配りしています。江戸後期の碩学であり実業家でもあった正司南鴃(なんげき)という人が職業道徳について説いた本でございます。吉之助は著者遺族の許可を得て再出版し,クラブの皆さんにお配りしました。吉之助は再出版の後書きに,「亡父が『これが自分の憲法である,よく咀嚼せよ』と申して渡しましたのがこの原本でございました」と書いています。中身について紹介する時間がありませんが,その代わりにもう一冊の本をご紹介いたします。「日本人として初のロータリアン福島喜三次伝」。この本は福島喜三次の出身地である佐賀県有田RCが発刊したものです。「生い立ち」の章には,「喜三次の父親が地元の碩学・正司南鴃に師事し,影響を強く受けて育った」と記されております。
100年を超えてわが家に伝わる家宝というか家憲(家の憲法)が,福島喜三次に,そしてロータリーにつながっていたということに大変不思議な因縁を感じております。吉之助も祖父も,父も私も一介のロータリアンに過ぎませんが,そこには小さな誇りと,ロータリアンとしての大きな喜びがございます。次の100年とまでは言えずとも,将来,私の子どもや孫が大阪ロータリーとのご縁を持てることを強く願っています。
(スライドとともに)