1997年生まれ。中学時代にカヌー部に所属。高校1年,体育授業中の事故で車椅子生活となる。2014年にパラカヌーを始め,翌2015年世界選手権に出場。’16年リオデジャネイロ・パラリンピックに出場し,女子カヤックシングル.KL.1(運動機能障害)で8位入賞。’17年にはワールドカップやアジアパラカヌー選手権で優勝。’19年世界選手権大会で5位入賞し2020東京パラリンピック代表に内定。2020東京パラリンピック,7位入賞。現在は江東区カヌー協会に所属し,筑波大学体育専門学群に在学中。
私は東京パラリンピックにカヌーの日本代表として参加しました。カタカナの名前なので,「外国人が来るかと思った」とよく言われますが,日本人です。母がクリスチャンで,クリスチャンネームのモニカを受け継ぎました。ただ私自身は洗礼を受けておらず,高校も仏教系の学校でした。今は筑波大学体育専門学群の4年生として,体育や「アダプテッド・スポーツ」を学んでいます。本来であれば社会人2年目の年齢になるのですが,東京パラリンピックを目指して休学し,カヌーに専念をしていたため,崖っぷちの4年生となっています。
もともと車椅子ユーザーだったわけではなく,小中学校のときには普通に走り回っていました。スポーツが大好きで,いろんな習い事もしていました。水泳,テニス,サッカー,陸上―スポーツだけではなくて,「文武両道で生きていきなさい」という母の方針から,ピアノ,そろばん,書道,英会話と,いろいろなことをやっていました。特に一番好きだったのが水泳でした。中学校に入って,「水」という共通点からカヌー部に入部しました。高校に進んで東京国体出場を目指していた頃,体育の授業中に大けがをしてしまいました。マット運動で倒立をした瞬間にバランスを崩し,頭から落ちて背中の骨を折ってしまい,体に障害が残りました。
私は胸から下に麻痺があり,腹筋,背筋が利きません。背もたれがある車椅子に乗って移動しなければならず,足も動かず,カヌーはできなくなりました。これから先どうやって生きていこうかと悩み,カヌーはもう一生やることはないだろうと,忘れてしまいたい存在になっていました。
でもあるとき,犬の車椅子を見る機会がありました。ワンちゃんの表情がめちゃくちゃ嬉しそうなんです。「車椅子を使うと,自由に動き回ることができてとてもハッピーなんだ」ということを,犬の車椅子から学びました。考え方次第で前向きになれる,前を向いて生きていこうと思いました。
4ヵ月間の入院中,東京五輪・パラリンピックの開催が決まりました。病院のベッドの上でそのニュースを見ていたときは,自分が東京大会に関わると思っていなかったですし,まさか出場することになるなんて想像もしていませんでした。東京大会のカヌー競技が,生まれ育った東京・江東区で開催されることが決まり,江東区カヌー協会が地元からパラリンピック選手を発掘するプロジェクトを立ち上げ,カヌー経験者の私に声がかかりました。パラカヌーの選手として競技復帰をすることを決めました。
自然の景色を楽しむレジャーカヌーと,私たちの乗っている競技カヌーは全く別物です。競技用はとてもバランスが悪いのですが,スピードがかなり出ます。大体時速15km,健常者であれば20kmを超えます。もし皆さんがこのカヌーに乗ったら,5秒以内に99%の人が落ちます。
私が感じるカヌーの魅力は,「水上はバリアフリー」という点です。車椅子ユーザーは,陸上では階段があって行けない場所がありますが,水上は段差も階段もなく,皆と一緒に行動できます。アメンボみたいな感覚で水面をはってスピードが出たときがやっぱり一番楽しいです。カヌーと出会ったことで,社会と通じるきっかけを見出すことができました。カヌーは人生の一部と感じています。
競技力向上のために選手が頑張るのは当たり前として,非常に多くの人に支えられています。まずはコーチ。3人ぐらいいて,トレーナーは2人。特注のカヌー用シートをつくるメカニック,栄養士,ドクターも必要です。一番大切なのは家族の理解とサポーターの皆さんです。一人でカヌーを持って移動することはできず,遠征や合宿では必ずサポーターをつけていくので,旅費などは2倍,3倍になります。コーチやトレーナー,メカニックも元々は本業があり,そういった人的環境をそろえることに本当に苦労しています。
パラリンピックに初めて参加したのは前回のリオデジャネイロ大会でした。パラカヌーを始めて2年。8位入賞という結果は一見,順風満帆な競技生活のように思えますが,決勝に進んだ8人の中でダントツのビリでした。トップとの12秒差は,果てしないタイム差で,もうどうやっていったらいいのかと,初めての挫折でした。東京大会に向けて全てを見直し,パワーをつけて臨んだ,本番と同じ会場で行われた国際大会で,メダルを獲得することができました。全てをかけた東京大会だったのですが,メダル獲得には届きませんでした。練習してきたことが本番に出せなかったのが一番の敗因で,本当に悔しい思いです。東京大会で一区切りつけて終わる予定でしたが,メダルを獲るまではやめられない。3年後のパリ大会に向けて今動き出しているところです。
入院しているとき,母から「笑顔は副作用のない薬」との言葉をもらいました。「自分が悲しいからといって,『もういいよ,人生終わった』とむすっとしていると,誰も助けてくれない。あなたが笑顔でいれば相手も幸せになって,相手の幸せが自分を幸せにしてくれる。あなたは笑顔を大切にして生きていきなさい」と言われました。この大切な言葉を心の片隅に置いて生活をしています。ぜひ皆さんにも覚えてもらえたらなと思います。
(スライド・映像とともに)