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2021年8月26日(木)第4,801回 例会

チャップリンとヒトラー,そして現代

大 野  裕 之 氏

日本チャップリン協会 会長
脚本家・映画プロデューサー
大 野  裕 之 

1974年大阪府生まれ。’98年京都大学総合人間学部卒業。2000年同大学院人間・環境学研究科修士課程,’03年同博士課程修了。’14年公開の映画「太秦ライムライト」で,脚本・プロデューサーを担当した。’15年サントリー学芸賞受賞の「チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦」(岩波書店)など著書多数。

 子どもの頃,NHKの教育テレビで「世界名画劇場」というものがあり,小学5年のときにチャップリンの「独裁者」を初めて見ました。本当におもしろくて,しかも最後は泣かせて喜劇王がたった一人で独裁者に立ち向かったという社会批評性も子ども心にわかるわけです。一気にチャップリンのとりこになり,お小遣いをためてはチャップリンの自伝などを買っていました。大学受験の浪人中に英国を旅して,チャップリンが生まれ育った演劇の都・ロンドンを歩き,ミュージカルにとりつかれて帰国。京都大学に入学して演劇に打ち込み,チャップリンで卒論を書きました。しかし指導教官は「修士論文は,調べ尽くされているチャップリンでやっちゃいけないよ」と言うのです。じゃあ,よほどの資料を見つけてやろうと再び英国に行き,完璧主義者のチャップリンが20回も30回も撮り直したNGフィルムを現地の研究所で全て見ました。そんなことで,チャップリンの研究と演劇の実践をずっと続けています。

同じ週に生まれた喜劇王と独裁者

 チャップリンが誕生したのは1889年4月16日。その4日後にヒトラーが生まれました。チャップリンは極貧の幼少時代を過ごしますが,どんどん演劇の世界で頭角を現していきます。1914年に米国の映画界でデビューすると,瞬く間にスター俳優となり,個性と才能をいかして編集や監督もこなします。
 一方,同じ週に生まれたヒトラーは画家を目指すも,受験した美術学校を落ちて放浪者のような生活でした。チャップリンが映画デビューした同じ年に,ヒトラーは第1次世界大戦に参戦した祖国のためにと従軍します。しかし戦果を挙げられるわけもなく,失意のうちに祖国も負けてしまう。チャップリンとは対照的な人生を送っていたヒトラーですが,ある集会で演説したところ,皆をわっと盛り上げることができたわけです。ヒトラーには人々に期待をもたせる演説の才能があり,政治の世界で頭角を現していきます。

ナチスが恐れたチャップリン

 チャップリンとヒトラーは実際に会うことはありませんでしたが,メディアの世界で直接対決することになります。ヒトラーは当初,チャップリンのことを敵対視しておらず,むしろナチスの機関紙には,おもしろい人といったことを書いています。状況が変わったのは’26年,前年に米国で公開されたチャップリンの傑作「黄金狂時代」がドイツでも公開されて大人気となります。ところがドイツ版のパンフレットに推薦文を書いた劇作家ら3人が全員ユダヤ人だったことから,ナチスによるチャップリンバッシングが始まります。
 ’33年に政権に上り詰めたヒトラーが最初に始めたのがメディアの統制です。メディア界,映画界からユダヤ人を追い出すだけでなく,既に平和とユーモアの象徴になっていたチャップリンのイメージをおとしめる戦略を始めます。ナチスがメディア界に出した1万1000もの命令の中に,「チャップリンをほめてはいけない」というものがありました。チャップリンのユーモアが「武器」として恐いんだということを,ヒトラーはよくわかっていたわけです。
 チャップリンは反撃に出て,映画「独裁者」の構想を練ります。欧州で台頭してきたヒトラーを笑いものにしてやらなくてはいけないと決意するわけです。
 一方,チャップリンが「独裁者」,つまりヒトラーを題材にコメディーを撮ると発表したときに,米国内でも大変なバッシングに遭いました。当時,ヒトラーはドイツを不況から救った英雄と見られており,米国も不況に苦しんでいました。「米国にもあんな強いリーダーがいればいいのに」とヒトラーが英雄視され,ニューヨークにヒトラーのファンクラブがあったぐらいでした。チャップリンの撮影所には,シカゴの主婦から「映画を妨害する」と脅迫する手紙も届いていました。

ユーモアが全体主義に勝利

 同じ年に生まれたチャップリンとヒトラーには,ほかにも偶然の一致があります。同じ時期に髭を生やし始め,チャップリンが「独裁者」の撮影を開始した1週間前にドイツはポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まりました。ドイツ軍は破竹の勢いで勝ち進み,ついにフランスを攻め落とした’40年6月,パリに入城します。芸術家を夢見たヒトラーが芸術の都を支配した絶頂の瞬間でした。その翌日,チャップリンは「独裁者」のラストシーンを撮影します。独裁者に間違えられた床屋さん役のチャップリンが全世界に向けて平和と民主主義を訴える名シーンです。
 この年に公開された「独裁者」は大ヒット。一方,ヒトラーはその公開をつぶそうとします。チャップリンをなんとかバッシングしようとした形跡がナチスの資料にも残っています。しかし,二人の戦いには決着がつきます。映画公開の翌年,それまで多いときは3万人を集めたヒトラーの演説は1日3回から,年間で7回しかできなくなります。映画で笑いものにされたことで演説の回数が減り,ヒトラーは演説という武器を奪われることになります。リアルな戦場で決着がつく前に,メディアの世界では決着がついていたわけです。かくしてチャップリンはヒトラーに勝利するわけですが,ミサイルとか爆弾よりも先にユーモアが全体主義に勝利をしたということは,メディア社会に生きる現代の私たちに,非常に多くのことを教えていると思っています。
(スライドとともに)