2005年愛知教育大学初等教育要員養成課程卒業。2005~’06, ’11~’12, ’16~’17年名古屋市立小学校講師。’18年より(公財)日本ラグビーフットボール協会女子セブンズコーチ。’19年中京大学大学院体育学研究科修士課程修了,現在,同博士後期課程在学中。
私の楕円球人生は1982年に始まりました。大きく4つに分けてお話をさせていただきます。まず1つ目です。愛知県一宮市のラグビースクールで兄と一緒に始めました。ラグビーは男のスポーツだみたいな感じで,なかなか受け入れられないというのが非常に辛かった思い出があります。
2つ目は大学時代で,今でも所属している「名古屋レディース」に入りました。会社員,理学療法士,看護師などいろいろな職業を持った選手たちが週末だけ集まって練習をするチームです。ですが,自分が日本代表としてワールドカップ(W杯)に出場したいという思いを持って入りました。
ここで少し日本の女子ラグビーの歴史について話をさせていただきます。私が研究している中で,一番早く女子選手がラグビーを始めたのが大阪だとわかっております。「大阪ラグビースクール」で1968年にはプレーをしていて,「ママさんチーム」が75年にできていました。その後,東北などでもできましたが,現在でも存続しているチームはほとんどなく,特にママさんチームはほとんど消滅しています。
女子ラグビーの歴史には3つの転換点があります。1つ目は日本女子ラグビーフットボール連盟創立。今ではもうないのですが,この連盟ができたのが’88年です。2つ目が,2002年W杯に出場した時,初めて日本ラグビー協会に女子が加盟しました。胸に桜のマークがつけられたのはこの時代からです。’09年,7人制ラグビーが五輪種目に正式決定し,ここから初めて五輪のマークに日の丸をつけて女子がプレーできるようになりました。
’02年のW杯に初めて出場できました。19歳で最年少だったんですが,とにかく体を張るというところだけは自分の長所として,相手のオランダの大きい選手にタックルをいっぱいしました。オランダに勝利し,その試合のMVPを監督からもらいました。その頃から世界で戦えるかもしれないという自信がつき始め,もっと世界を知りたいと強く思うようになり,翌年,ニュージーランドにラグビー留学を半年間しました。
ここでびっくりしたことが3つありました。まず,母親が当たり前のようにラグビーをしているということ。2つ目が,子どもたちが,母親が練習している横でいつもラグビーボールと戯れている姿です。3つ目が,女子ラグビーの試合に地域の人たちがたくさん集まって応援してくれること。日本でもこんな光景が当たり前になったらどんなにすばらしいだろうと思いました。
楕円球人生3つ目です。結婚・出産を機に,ママさんラガーになって,必ずもう一度,世界の大会に行こうと決めました。25歳にママさんラガーになり,26歳のときに7人制のラグビーのW杯のアジア予選で優勝できました。2009年,第1回のセブンズラグビーW杯が行われました。私もキャプテンとして選出されたのですが,出発1週間前に大きな怪我をして出場を断念しました。同年に7人制ラグビーが五輪の正式種目に決定しました。’16年が五輪ですので,自分は34歳。7人制ラグビーは15人制ラグビーよりも体力も必要なので無理かなと思ったのですが,年齢を理由にあきらめるというのはおかしいと,できるところまで頑張ろうと思いました。
五輪種目に決定し,合宿日数がすごく増えました。アジアでは安定してベスト3,特に1位になる回数が増え,世界でも過去最高7位まで上がることができました。
34歳で,リオデジャネイロ五輪に出場できました。仲間たちがつないだボールを最後私に渡してくれてトライを獲る機会もいただくことができました。ただ,ずっと金メダルを目指していたのに,結果は10位で思い描いていた結果は得ることができませんでした。しかし,娘が,手作りの桜色のメダルをくれたというのが,自分たちの救いになりました。
こうして楕円球人生は終わったと思っていたのですが,続いていたんです。それが指導者という道です。五輪が終わり,オリンピアン研修会に参加する機会がありました。五輪に出場した選手たちが集まって勉強会をする機会です。金メダリストの方々と会うのは緊張するなという気持ちで参加しましたが,思い描いていた研修会とは違い,これからオリンピアンとしてどうしていくかを深く学ぶ機会でした。そこで出会ったのが,今自分の大学の師匠に当たる來田(らいた)享子先生(中京大学スポーツ科学)です。先生がこんなふうに言ったんです。「五輪に出場したからオリンピアンではない。五輪に出場しなくてもオリンピアンになれる」と。初めは,何を言っているんだと思ったのですが,お話を聞いて,なるほどと思いました。五輪の価値を,今まで私はメダルだと思っていましたが,それだけではなく「卓越・友情・敬意・尊重」という重要な価値があると気づかされました。残りの人生をかけて真のオリンピアンになろうと心に決めました。
歴史研究者として,過去の女性たちの楕円球への思いを未来につなげたいと思っています。何で女性がラグビーをやるんだと言われた時代に,なぜお母さんたちがラグビーをやったのか,その気持ちを残していきたいと思いました。
指導者として,楕円球を通してオリンピアンを育成したいと思いました。ラグビーがうまければいいというものではないということを若い選手たちに訴えようとしています。彼女たちはニュージーランドの現地で自らゴミを拾ったり,自分たちが負けたオーストラリアの選手たちの勝利を称えたりと本当にすばらしいオリンピアンだったなと感じています。
オリンピアンとして楕円球の力を多くの人に伝えたいと思っています。小学校や中学校の授業で「タグラグビー」をやります。タックルはないので,性別も体力も年齢も関係なく,様々な人たちがやることができます。こうやってラグビーの価値を伝えていきたいと思っています。
(スライド・映像とともに)