1978年生まれ。2000年関西大学社会学部卒業後アメリカへ留学。’04年高野山にて加行。’05年より清水寺にて僧職。’13年清水寺塔頭成就院住職に就任。’14年世界宗教者平和会議・日本委員会青年幹事に就任。現在清水寺執事補。日々の仏事と共に,大衆庶民信仰の入口を構築,観光客と信者の橋渡しをテーマに,今と未来の護持発展の種まきに努める。
平素よりさまざまな法務を通して知り,感じ得たこと,先師・先輩方から伝えられたことを中心に,皆さまと何かを共有するつもりでお話しします。
清水寺は1200年ほど歴史があります。今は「歴史的文化遺産」と「現在進行形仏教寺院」という二つの働きが基軸になっています。現在,本堂をはじめとする平成の大修理が終盤に差し掛かっているところです。
皆さん,今幸せでしょうか。万人に共通する幸福の定義というのはなかなか難しい。仏教においては,われわれの生活は苦しみが前提で,時々まことの喜びごと,幸せが舞い降りてくる。これらを能動的に,積極的に見いだしていくことになっています。
苦しみの最たる例が「生老病死」,要は「無常」というわけです。無常とは,苦しみに直面した際に,その苦しみもまた無常であるから,頑張り続ければいつか乗り越えることができるという具合に,本来苦しみから脱却するための前向きな知恵として使われるのが理想です。
月日が止まることなく流れ続けていく無常の概念とともに,仏教でよく出てくるのが「三世不可得」です。三世というのは過去・現在・未来のことで,いずれも思う通りにならないという知恵です。過去はもう起こってしまったことなので,それが今とこれからにとって必要なことであるという捉え方しかできません。未来に対しては,できるだけ自分にとって本意でない出来事が起こらないように努めることはできるかもしれませんが,それでもなお想定外の出来事は起こり続けるものです。
仏教で言う現在は,例えば「パン!」と手を鳴らし,音が聞こえた瞬間のことです。音が聞こえたすぐ後に「過去」になってしまう。人間の力では,この瞬間にできることはあまりにも少ないので,現在もまた「不可得」,思い通りにならないということです。演題の「而今(じこん)」は,まさに「いま,この時」というような意味合いです。
命を大事にしましょうというようなことが異口同音に伝えられるわけですが,やっぱり,生まれてきて良かったと心から思えることではなかろうかと言う人もいるでしょう。無常,三世不可得という時の概念について共有してきましたので,「命」を大切にするとは,「時」を大切にすることと定義して話を進めます。
インドのマザーテレサの言葉と伝わっているのが,「頭で思うことはいつか言葉になります。言葉に発することはいつか行動になります。行動はいつか習慣になる。習慣はいつか性格になる。性格はいつか皆様の人生そのものになり得ます」というものです。
「上総掘り」という日本の伝統的井戸掘りの技術をアフリカに輸出した人がいました。水ができると緑が広がり,植物の水蒸気が雲になって雨をもたらす。子どもが生活用水をくみに行く必要がなくなると,教育を受ける時間が生まれ,地域の未来を支える人材が育つ。
あらゆる事象は,最小単位から始まるということです。誰かの一言であったり,誰かの行動,誰かの勇気や決断だったり,ほんのささいな第一歩からあらゆる事象が始まる。時を大切にすることの最小単位は,「いま,この瞬間」すなわち「而今」を大切にするということに他ならないのではないかと思います。
今この瞬間を大切にするという具体例を三つ紹介します。
まずは「現状維持」です。昨日と今日で,日常生活の実感として同じ安心がある,同じ無事がある,同じ快適や便利,同じ環境が整っていると感じることができるなら,その現状を支えるのに無数のエネルギーが働いていることを,もう少し自覚するべきかと思います。
二つ目は,「次がある」,「また」という想定は,本来誰にも保証されたものではないということです。また次があるという概念から脱却して,いまこの瞬間を心から大切にするという一念に集中することがかなうなら,そこに内在する喜びや幸せ,感動は,慣れ親しんだ日常であっても,われわれが思っているより実はもっと大きくて深いのではないかと思います。
三つ目ですが,京都の禅の有名な和尚様がある時学生に法話をしました。法話の後に,学生から質問がありました。「自分が何者か知るためにはどうしたらよろしいか」。和尚様は「自分以外の何か,誰かのために懸命に尽くしてください。『ああ,私はこれをやってよかったな』と心から思える瞬間が必ずやってきます。その瞬間に対峙(たいじ)するご自身が限りなく自分自身の本質に近いのではないでしょうか」という趣旨の答えをしたそうです。
私利私欲から自然と離れることで本質的な自分に近づいていく,その作業のことを「祈り」と定義します。皆さまにはご自身の祈りというのが必ず存在するわけです。願わくは自分にとっての祈りというのを常日頃より少なくとも一つはイメージしてもらいながら,それをほんのささいな形でも,実践に努めてもらいたいと願う次第です。
清水寺には,たくさんの外国の人も来ます。「悟りとは何ぞや」という質問を受けます。尊敬するある先生から教えてもらった「悟り」の定義を紹介することで,私の話を結びとします。
悟りとは「本来は,失ってから初めて気付く本当に大切なものを,失う前に気付くこと」です。願わくは,皆さまの日常においてほんの一端でもお役に立てば幸いです。