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2003年3月14日(金)第3,969回 例会

言いわけ―その社会的意味

柏岡 富英 氏

京都女子大学現代社会学部教授 柏岡 富英

1948年兵庫県生まれ。'73年関西学院大学経済学部卒業。'78年米国デューク大学大学院社会学研究科入学。'82年デューク大学よりPh.D(社会学)
取得。'89年~'98年国立国際日本文化研究センター助教授。'96年ベルギー ルーヴァン・カトリック大学客員教授。'98年京都女子大学教授。2000年同現代社会学部教授・学部長。

「言いわけ」というのは、何か悪い魂胆をうまくカバーアップするような響きを持っている。そうお思いではないでしょうか。国語大辞典をひきますと、第一義は、「物事の筋道を明らかにして説明すること」というので、ちっとも悪い意味はないんです。「過失や罪を詫びること」というのが第2義、「過ちを謝すること」というのもその後に出てくる。「しまった、ごめんなさい」という意味での言いわけというのは、実は派生して出てきた言葉なのです。

言いわけで成り立つ私たちの社会

 われわれは年中言いわけをしております。あるいは言いわけだけで社会が成り立っているというふうに社会学的には申し上げてもよいわけです。日本だとすっと通ってしまう“あたりまえ”が、海外では通用しないことがよくあります。どうしてこういうことが起こるかと言いますと、われわれが日常生活を送るときにしていることのほとんどは、「自動作用」によっているからなのです。つまり、朝起きて「おはよう」と言われると「おはよう」と返す。「おやすみ」も「いただきます」もわれわれは一切何も考えない。われわれは、当然のこととして、前提とするさまざまなことの上で生活を成り立たせています。そして海外の人たちも全くわれわれと同様なのです。ただ、それぞれの当然のこととしている事柄は違います。ですから、日本のあたりまえが必ずしも海外のあたりまえではない。

 さらに、「当然」の種類は、国の違いだけではありません。例えば、日本でひと昔前によく使われた「新人類」という言葉があります。若い人たちの行動パターンが、ある年齢以上の方の行動パターンと全然違うわけです。それで、新人類と呼んだ。新人類というのは、ほとんど人類ではないと言う意味です。自分たちの生きている世界というのが当然であり、それから外れるのは間違っていることになります。逆に、新人類から見ると、われわれはほとんどネアンデルタールに近いような旧人類もいいところです。国、社会、年齢などあらゆる所属集団によって“当然”の種類が違う。そういう人たちが混じり合っていますと、必ず“齟齬”が生じます。そのときに、自分の考え、行動を相手に説明するというのが「言いわけ」の根本的なところなのです。言いわけを集めて比べてみると、ある集団、あるいはある社会で何が当然のこととされているのかが浮かび上がってくるのです。

 日曜の接待ゴルフ、これは会社の仕事だから仕方がない。しかし、実は「仕方が随分ある」。ビジネスのやり方も随分変っていることに本人たちはうすうす気づいているから、必ずと言っていいほど奥さん向けの賞品が用意される。それは、後ろめたさをひた隠しにするための道具です。「仕事と私とどちらが大事なのよ」という痛い一発。つまり、ビジネス第一を成り立たせている前提に対して、もう一つ別の前提が突きつけられるようになったのです。

自分はどんな約束事で成り立つ社会に生きているのか

 今まで当然であったことが、当然でなくなる。社会は約束事で成り立っているだけのことで、別の約束事が出てきてそれにチャレンジするようになると、今までの前提というのは変っていかざるを得ない。それは、社会の進歩と言えるのですが、それでずっと生きてきた人間にとっては世の中が随分生きにくくなった、極端な場合には、堕落をしたというふうに感じられるわけです。「これは仕方がないんだ」という究極の言いわけは、自分が今何を前提としてどんな生活をしているのかということがかなりはっきりわかるのです。

 現代の社会ではどういう「言いわけ」、あるいはどういう「仕方がない」が大きな力を持っているのか。一つは、広い意味での「人権」というものです。「人権擁護のため」と言うのはかなり有力で、まさか反対は言えない。タバコに代表される「健康」も然り。禁煙運動はアメリカ発の健康志向の中で最も攻撃的なものです。しかし、健康にいけないということは今すべてだめなのです。

“たまちゃん”から見えてくること

 他にも沢山ありますが、もう一つは、「環境保護」。至近な話題では、「タマちゃん」騒動です。先日捕獲しようという動きがあって、タマちゃんはうまく逃げました。ここで2つの言いわけがぶつかりました。タマちゃんのことを「想う会」と「見守る会」です。「想う会」は、行動するということを旨とし、タマちゃんを捕まえて北海道に放すという自然保護を訴えた。「見守る会」は、タマちゃんに独断のお節介はせず、ただ見守る。こういう自然保護もあるのです。実は「想う会」は、調査だと偽って捕獲を試みました。アメリカではよくある行動の言いわけが日本では通用しないことを彼らはよく知っていた。ここに、2つの言いわけのぶつかり合いがあります。つまり何か具合の悪いことがあったら、アクティブに働きかけるのが当然であるという価値観の世界と、見守るんだという価値観の世界がぶつかった。私はこの2つの言いわけ群のいろいろなやり取りを見て、イラクのことを思います。アメリカのイラクに対するやり方、考え方というのは、まさに「想う会」のそれです。本来日本は、タマちゃんに関しても、イラクに関しても、やっぱり見守る文化なのじゃないか。どうも根底でつながっているように思います。今、自分の身の回りでどういう言いわけが通用し、あるいは力を得ているかということから、もう少し物事がよく見えてくるかなという気がします。