1950年生まれ。83年『海に夜を重ねて』で文藝賞受賞。87年咲くやこの花賞(大阪市芸術新進作家賞)受賞。小説の他,ノンフィクションや評論も手がけ著書多数。NHK総合テレビ「アジアマンスリー」のメインキャスター (3年にわたり担当)の他,朝日放送「おはようコール」等にレギュラー出演中。
1996年に「大阪が首都でありえた日~遷都をめぐる<明治維新>史」という本を書く動機になったのは,通り抜けの花見でした。造幣局の看板に「本局」とあるのを見て「あれ?」と思いました。東京は「支局」です。それは明治維新の突端に,一瞬,大阪が首都に成り得たということの名残だったのです。
幕末動乱の始まりはペリーの浦賀来航だと言われますが,翌1854年に大阪で大きな黒船騒ぎがありました。天保山沖にロシアの巨大な軍艦ディアナ号が現れ,責任者のプチャーチン提督が開国交渉を迫りました。大阪を予想もしていなかった幕府は和歌山などから侍を1万5000人集め,大小5000隻の船で監視しました。特にショックだったのは京都の朝廷です。孝明天皇の彦根城への遷座も,と緊張するうちに,2週間停泊の後ディアナ号は下田へ回航されます。以後,朝廷は幕府に外国からの警護の要求を強め,これが幕末動乱への時計を一気に進めることになります。
米英露の列強による近代資本主義の要求に1858年日米修好通商条約という不平等条約を勅許なしに結んだことで大老・井伊直弼が尊王攘夷派に暗殺され,このあと様々な経緯があって,1866年薩長同盟成立,1867年明治天皇即位,大政奉還,王政復古の大号令・明治政府の設立と動いていきます。
1868年・明治元年早々に鳥羽伏見の戦いが始まり,徳川慶喜の大阪城脱出,明治天皇の奥羽諸藩征討命令といった動きの中で, 1月23日に京都で重要な会議が開かれます。
明治最初の職官である三職,つまり総裁(有栖川宮熾仁=たるひと),議定(皇室関係者・貴族),参与(岩倉具視ら下級貴族,大久保利通,西郷隆盛ら薩摩・土佐・広島・尾張・越前の代表者)による会議です。大久保利通は有栖川宮の許可を得て岩倉具視と相談して事前に「大阪遷都建白書」をしたため,この会議で正に大阪遷都が議論されたのです。
大久保は建白書の中で「世の人々が仁徳天皇の時代をすえながく褒めたたえるのは,浪速の都を見てまわられた際に,家々から立ち昇る窯の煙を観察し,その数が多いか少ないかによって庶民の暮らしぶりを判断されたと伝えられるほど,仁徳天皇が常に人民のことを気にかけておられたからであります。…だからこそ,すべてをあらため一からはじめ直そうとする王政復古の現在において,仁徳天皇期のような,わが国の朝廷が清らかで尊かった時代をお手本にされて,外国のすぐれた政治をも圧倒するほどの思いきった決断により,ご実行されるべきは遷都でなければなりません」と,新時代の天皇は人民に近づかねばならないという大胆な提案をしています。そして遷都に関して「大阪以外にふさわしいところはありません」と書かれています。
大久保,岩倉が大阪へ遷都しようと考えたのは,古いしきたりと権益保持にしがみつく宮廷と天皇を引き離し,新しい天皇親政の時代の到来を人民に示したかったのです。そして新政府が責任をもっておさえていた一番大きな都市が大阪だったということです。江戸はまだ開城されず戊辰戦争がこれから本格化するという時点でした。また新政府設立時に大阪の豪商から巨額の資金を得ていたことから,遷都によってさらに大阪の財力が活用できるという思惑も働いたとみられます。
遷都で立場が弱まる皇室関係者・公家,守旧派の藩代表の反対,特に薩長が天皇をたてに,したい放題をたくらんでいるという指摘も多く,どなり合いの会議となりました。
その後反対派の猛烈な動きに,大久保らは遷都ではなく「大阪行幸」の形で,なし崩しに目的を達成しようとしました。東の戦争に送り出す大阪の官軍兵士を激励,士気を高めるということでむりやり行幸を実現させます。
京都では反対の嵐が吹き荒れました。一方大阪の庶民は,行幸が場合によっては遷都となると知っても喜びませんでした。江戸は人口100万の半分が侍だったのに対し,大阪 50万のうち侍は1000人程度。それでいて日本の経済・流通・生産の中心だった。半分自治的状態です。そこへ朝廷が来ると,うっとうしい,自由でなくなると,歓迎するという当時の記録は皆無に近いのです。明治初期の20年ぐらいを大阪の資本が支えていたのだから,大歓迎だと運動していれば首都でありえる可能性はもう少し高かったでしょう。
庶民の反応は大久保にも伝わり,津村別院で44日間過ごした後,天皇は京都に戻りました。大阪で生まれて初めて海を見た天皇は「自分にとっての海は,大阪湾だ」とおっしゃっていたそうです。その後,戊辰戦争の「親征」ということで7月江戸に移動します。その費用も100%大阪が出しました。勝海舟,西郷隆盛の話し合いによる無血入城です。いったん京都に帰ったあとまた東京に戻ってから,つまり明治2年3月28日以降,天皇は東京に行ったままです。天皇が最初に行ったとき江戸が東京になり,「みやこ」つまり「東京都」になったのは驚くべきことに昭和18年で,首都を定める法律は現在もありません。
大阪遷都否定論を見事な文章で大久保に書き送った前島密は「大阪は自立自衛の町。首都にならなくてもやっていける。しかし江戸は,放置されればたちまち崩壊するだろう」と言っています。現在ちょっと元気をなくしている大阪ですが,この時代の大きな歴史の流れの中で,自分たちでやっていくという考え方を曲げなかった大阪は,当時から,ナンバーワン思考よりもオンリーワン思考であったのではないかという気がします。