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2003年10月31日(金)第3,997回 例会

日本人の神観念ー福神信仰をとおして

津江 明宏 君

会 員 津江 明宏

1957年生まれ。81年広島大学理学部,皇學館大学神道学専攻科卒業。93年今宮戎神社禰宜。00年同宮司,現在に至る。 当クラブ入会 : 02年6月。 PH準フェロー,準米山功労者。   (宗教)

 かつての日本人が抱いていた自然や神様に対する素朴な感情をお話できたらと思います。まず,「福」という漢字ですが,左の示偏は神様とかそのお告げとかを意味し,右の旁はふくらみのある器という意味です。これを合わせると「大きな器に一杯お供えを満たし,神意を得る」という意味になります。このように漢字には神とか,神様をお祭りするとかという意味合いのものが非常に多いのです。

垂直に降りてこられる神様

 ロータリーの「奉仕の精神」の「奉」は大地に木を差し立てる姿,「仕」はお祭りに仕えるということで,木を立て神様を天からお迎えしお祭りするのが「奉仕」の本来の意味です。地鎮祭などで祭壇の中央に飾られる榊,神籬(ひもろぎ)が正にそうです。神が天から降臨するという垂直の現れ方は世界共通でクリスマスツリーもそこに神様を迎えるというキリスト教以前の宗教の姿を示しています。

日本ではこのようにそこに降りて宿るものを依り代(よりしろ)と言います。樹木としては常緑樹で,常に青々とし生命力に満ち溢れたものです。榊が多く使われますが,他に竹があります。天に向かって真っ直ぐ伸び,節を付けるので神様が宿る木として古来尊ばれてきました。正月の門松に竹があるのも年初に歳神(としがみ)をお迎えするものです。

 そういう意味で私どもの十日戎でも,笹にお札や縁起物を付けて一年の商売繁盛を祈願します。昔ならどこにも竹林があり調達できたので「商売繁盛で笹持って来い」の掛け声が生まれました。今はすべて神社で調達しますが,約15万本に上ります。和歌山県の九度山から伐採していますが,笹の意味を伝え,笹を調達することでも四苦八苦しています。

 「福」の訓読みは「さきわひ」で,「栄える」「盛ん」と同じ。「咲く」も同根で,花が咲き生命力が満ち溢れるとの意味です。「さち」も今では「さきわひ」と同様に扱われますが,本来「さ」は魚などを獲る道具,「ち」は自然が持つ霊的な威力という意味で,「さち」はそのような道具で得られた自然の恵みのありがたい尊さを指します。海の幸,山の幸にも自然や神様から頂いた得難い恵みをおろそかにしてはならぬという戒めが込められています。

言霊と「袋」の神観念

 「ち」にはそのようなものをおろそかにすると非常に危険だ,心せよという意味が多い。血液の血,大地の地,太刀の「ち」などです。道の「ち」も,そこからよその産物や情報が入ってくると同時に侵入者や疫病もやってくる。それを防ぐのが道の神様,道祖神です。口の「ち」も同じで一度言葉にして発すると実際にそうなるから軽々しく言ってはならぬ,という呪術的な信仰があります。この「言霊(ことだま)信仰」も日本の神観念の特徴です。命の「ち」も同じで,「い」は生きている証拠の「息をする」から生まれたのです。

 福の神は,時代を経ると民衆がよく知る具体的な神様の名前を当てはめられます。それが七福神で,大黒天と布袋は袋を担ぐ。その袋からいくら財貨を取り出しても減らないとされ,袋には霊力があるという信仰につながっています。今は形式的な祝儀袋も,本来は中のお金以上に差し出した側のお祝いの気持ちが入っている。手紙も封筒に入れることで文面だけでなく先方への尽きない思いを込めたのです。今やそんな信仰が薄れ,ファクスや携帯メールが氾濫しているのは残念です。

 また,大黒天や弁天,毘沙門天など「天」の付く神はインドのヒンズー教の神様で,福禄寿,寿老人,布袋は中国の神様。唯一戎様だけが日本の神様です。その七福神は宝船に乗っていますが,これは日本の神観念の特徴である「海の彼方からやってくる霊力のあるもの」に対する信仰です。先の神籬の「垂直方向」に対し,「水平方向」の神様の現れ方です。祝儀袋に熨斗アワビがあるのも海の霊力を重ね合わせためでたいものなのです。

信仰する人の心のあり方

 柳田国男の「海上の道」や折口信夫の「まれびと論」にもそんな神観念が描かれていますが,「海からもたらされたものに畏敬の念を抱く」という信仰を絵にしたものが七福神の宝船です。ただ,戎様は日本人の神様で船に乗る資格がないように思えます。が,「貴種流離譚」のように一旦海に流された神様が異国で苦労し偉大な神様になって戻ってくるという信仰があります。戎様も同様で異国から戻ってくるため船に乗る資格があるわけです。

 このように様々な観念が重層的に構築されて福の神の信仰になっているのですが,肝心なのは信仰する人の心のあり方に帰結するということです。狂言「福の神」で二人の男が神様から願いをかなえてもらうための元手はお金やお供え物でなく,早起きし慈悲の心を持ち,他人を温かく迎え夫婦は穏やかにという気持ちの持ち方だと諭されます。私たちはモノやお金が多いほどよいという価値基準をすべてに当てはめがちですが,昔の人々はそうではない。神様や自然への接し方,また生活を通しての感じ方が現代人より豊かで謙虚だった気がします。私自身反省しきりです。

 鎌倉幕府の基本法・御成敗式目に,人は協力し助け合って神様を敬いお祭りすれば,その威力はますます増し,その徳によって人々の運が開けるという文章があります。私には一種の警句で常に危機感を覚えさせられます。十日戎の祭りもこの言葉を噛み締めて行っています。この言葉から次のようにも言えます。

「大阪ロータリークラブは大阪ロータリアンの敬ひにより威を増し,大阪ロータリアンは大阪ロータリーの徳により運を添う」と。