1927年西宮市に生まれる。神戸一中,旧制三高を経て '48年京都大学電気工学部へ, 一年で中退。 '49年大阪大学医学部入学,'53年卒業。'78年同大学医学部教授,'84年同大学病院長。'65年に筋PFK欠損症(垂井病)発見。'91年同大学名誉教授, '92年大手前病院院長,'03年同名誉院長。 ハーゲドーン賞, 上原賞, 武田賞など受賞。音楽や囲碁のほか日本語の言語脳科学に興味をもつ。
当クラブ入会: '86年6月 PHF, 準米山功労者
1500年前,日本は無文字社会で文字がありませんでした。文字がないからといって言葉が粗末であったわけでなく,きわめて洗練された言葉を使っていました。それは漢字が来て2~300年後に『万葉集』という多様な質の高い詩歌集が完成したということでも明らかです。漢字が入ってきたのは,5世紀ぐらいと考えてもいいかと思います。
漢字というのは音読みでいろいろあるわけですが,一般的には「呉音」と「漢音」というのが多いのです。呉音というのは三国志の呉です。それがまず入ってきまして,その後,漢音が,唐の時代の音らしいですが,日本に入ってきたと言われております。呉音が入ってきたときに,一緒に仏教も入ってきました。ですから,仏教用語には呉音がいくつかある。例えば「如来」というのもそうですし「供養」というのもそうです。医学もそのころ入ってきました。医学というのは人類にとっては古いものでありますから,必ず一緒に動いているわけです。そのために医学用語も,呉音が多いと言われています。その代表的なものは「内科,外科,小児科」です。外科というのは主として体の外部からアプローチする医学だろうと思うのですが,それなら「外科(がいか)」と言ってもいいわけですけれども,「外科(げか)」と言う。これも呉音らしいです。
漢音というのは唐の発音でして,唐というのは基本的には北方系です。ですから何となしにゴツゴツしています。例えば「老若男女(ろうにゃくなんにょ)」と言いますと呉音ですが,「ろうじゃくだんじょ」と言いますとこれは漢音です。
漢字が入ってきて,500年ぐらいたって「仮名」が完成します。非常に美しい形で完成します。その後の日本語の流れを考えてみますと,漢字に仮名を混ぜてずっと使っておりまして,その仮名も,平仮名もあれば片仮名もある。音表を文字化する最初のポイントとしては「仮名」の完成のときではないかと思いますが,その時期にはそんなことを考えた人は一人もいないと思います。それは,仮の名という「仮名」という文字に端的に現れております。そのときに漢字のことを本当の字「真名」というように言っておりまして,仮名文字化しようとは考えなかったわけです。
音表文字化というのは日本文化のクリティカルポイントでぱっと出てきます。明治政府の初代文部大臣,森有礼は,英語にしようと言いました。それから敗戦後のかなり混乱した時代でしたが,小説の神様と言われていた志賀直哉さんが,「改造」という総合雑誌でフランス語にしようと提案しました。
そういうやや非現実的な提案というのは実現しなかったわけですが,アメリカの占領軍の教育使節団というのがありまして,基本的にはローマ字化しようと,その前には漢字制限しようと,戦後の漢字を制限する流れというのはそのころ始まったわけです。
中国文学者の高島俊男先生が「漢字と日本人」という非常におもしろい本を書いておられます。その中で「言葉の後ろに漢字がへばりついている」と指摘されています。私は学生時代にローマ字で書かれた物理学の本を読んで,意外に分かった経験があります。これは頭の中で言葉の後ろに漢字をへばりつけることができたからだと思うのです。それは私が漢字教育を受けていたからです。ただし,ローマ字論者というのは基本的に漢字をやめようと考えているわけですから,漢字を全然知らない人がローマ字で書いたテキストブックを読んで分かるだろうか,言葉の後ろに漢字を張りつけることができなくて理解できるだろうかと思いました。ローマ字論者というのは,基本的に錯覚していると思いました。
パソコンが非常に日常化しまして,言葉の発信が簡単にできるようになりました。つまりやや難しい漢字でも使える。例えば「憂鬱」という字を書けと言われたらちょっと躊躇します。だが発信することは簡単です。教育の世界ではどうなっているかは知りませんが,社会では「書けなくても読めたらいい」という考え方もあるのです。それは大野晋先生のような国語学者もそういうことをおっしゃっています。漢字の問題というのはなかなか複雑です。
言語に関する大脳の統合中枢は,右利きの人の99%は左の脳にあり,発語に関する統合中枢は前頭葉の左横側にあって,そこではかなり統合して命令を出しています。言葉を聞いて意味を理解する中枢は,やっぱり左の脳の側頭葉の後ろ寄りに,音表文字を読むという視覚言語の中枢も音声言語の中枢の近くにあって,読んで意味が分かるようにしています。しかし,漢字はどうかというと,これが大問題です。最近の研究では,音表文字の中枢よりも大分離れた側頭葉と後頭葉の接合部分のかなり下のほうに漢字の読書中枢というのがあるらしいのです。
日本人というのはかなり優秀な民族だと思います。その日本人の優れた知性,その脳を鍛えることに関係あるのは,仮名と漢字を混ぜた文章を実に天才的に読みこなしている,あるいは聞いて理解する,そういう日常生活に関係あるのではないかと思います。