1964年京都府生まれ。東京大学大学院総合文化研究科比較文学文化専攻博士課程中退。東京大学助手,ケンブリッジ大学客員研究員,駿河台大学助教授を経て現職。
主著:「南方熊楠,一切智の夢」,「南方熊楠を知る事典」,「達人たちの大英博物館」
南方熊楠は江戸時代の最後の年,1867年(慶応3年)に和歌山で生まれました。そこで中国の「本草学書」を読み,暗記して学問をして二十歳で米国や英国に行きました。伝説めいたところのある人で,和歌山の田辺で活躍していたころには,毎日裸で暮らし1日にお酒を2升ぐらい飲み,その上で,さらに10カ国語か20カ国語ぐらいの手紙を書いていたといわれています。子どものころに「本草学書」を全部暗記して家に帰って写したということもありました。本当のところは,5~6カ国語ぐらいは読めたし,年じゅう裸ではないけれど夏の間は丸裸だった。また,全部暗記して帰ったわけではなくて,途中からはもらってきてそれを写したということのようです。
中国とか日本の伝統的な自然科学を身に付けた上で米国や英国に渡ったということが,熊楠という人の場合には大事なところです。そうやって勉強したり本を読んだりするのが大好きでした。東京大学予備門に入りましたが,授業が大嫌いでサボっては図書館に行ったり,博物館に行ったりしていた。結局,落第して大学を中退して米国に行くわけです。米国で20歳~25歳まで過ごして,25歳のときにロンドンに渡って,そこで8年間にわたって研究しました。
当時の大英帝国は,世界中からいろいろなものや人を受け入れていました。自由に活動する場も与えていました。熊楠がロンドンで一番よく行ったところは大英博物館です。大きな円形ドーム型の図書館がありまして,150万冊もの蔵書を持っていました。当時世界最大の図書館です。熊楠がそこへ行ったときにもそれを自由に使わせてくれた。そこで英文で論文を書いて活躍します。
論文は,子どものときに読んだ中国の科学のことです。中国の科学を英語で「Nature」という雑誌に投稿し,西洋の科学と違って中国の科学,あるいは東アジアの科学にはこういうのがあるんだということを訴えるわけです。その時代は,西洋の科学が唯一の科学のように思われていたのですが,科学というのもやはりいろいろな在り方があって,中国の考え方に基づいた科学というのも当然あり得る。そういう複眼的な物の見方というのを熊楠が提供していたわけです。
それを受け入れる「Nature」という雑誌のほうも,そういう日本人が英語で論文を書いたものを載せて評価します。載っているところは読者投稿欄で,どんな読者からでも投稿を受け付けるわけですが,それが決して雑誌の片隅ではなくて雑誌の中心なんです。そういうオープンな姿勢が熊楠が活躍できる土台になったことは重要なところだと思います。
熊楠は知り合いに連れられて大英博物館に行くのですが,そこに副館長格のフランクスという人がいました。この人は東洋美術のコレクターとしても有名で大変な金持ち。学問にも関心があった人です。そのフランクスに熊楠が会って,フランクスは70歳近い方でしたが,対等に話をして熊楠のほうが知っていると思われる分野に関してはフランクスがいちいち,どうかということを聞いて,そこで学者としての交流ができるということがあります。
熊楠はこのとき26歳で学位も何も持っていない,そういう人に対してフランクスが心を開いて話ができるということが分かるとすぐに受け入れてくれたということを大変感激して書いている。
これを機会に大英博物館に出入りするようになります。蔵書を書き写していく作業をします。その書き写したものをもとにして「比較民俗学」という世界中のいろいろなフォークロアを比較する学問を開拓し論文に書いていく。34歳のときに日本に帰ってきますが,比較民俗学の知識というものを柳田国男との文通のやり取りの中でいろいろな形で教えます。熊楠はある意味で柳田国男の先生です。それも大英博物館に行って世界最高の図書館で勉強できたということがもとになっているのです。
大英博物館は国立ですが,フランクスのような篤志家もいるし,小説家のアーサーモリソンという人も出入りしていた。推理小説を書いて非常に売れていた作家です。この人が熊楠のことを大変面白いと思い,「Nature」に出す論文は全部きちんと手を入れて英語を直して仕上げてくれるわけです。フランクスも,熊楠が大英博物館に行ったときには,そのとき「Nature」に投稿する「東洋の星座」という論文に関して,英語をきちんと直してくれてアドバイスをしてくれています。
熊楠はロンドンでずっと勉強したいと思ったのですが,不幸にして日本に帰って来ざるを得なかった。お金の問題がありまして,実家は和歌山県の酒造会社ですが,当時大金持ちでしたからお金を送ってくれました。ただ日本とロンドンと物価が全然違うわけです。結局,帰国します。熊野那智の滝の辺りで植物採集をして,エコロジー(生態学)という概念を日本へ初めて導入します。その概念に基づいて進められていた開発の自然破壊を批判してやめさせるという運動をするわけです。そういう多面的な活躍をした人ですが,25歳から33歳までのロンドンでの研究,世界の最高の文化財を集め,本を集めていた場所で研究できたということが大きな原動力になっているわけです。