1933年生まれ。61年神戸大学大学院経営学研究科博士課程修了。経営学博士(神戸大学),公認会計士第三次試験合格。81年神戸学院大学教授。02年日本簿記学会会長。現職:新橋監査法人代表社員 公認会計士,三洋電機(株)社外監査役・神戸学院大学名誉教授,福山大学経済学部教授。
当クラブ入会:1983年3月・PHF
ダ・ヴィンチ・コードという本が世界で5,000万部以上売れたということですが,私の本日の話とは,あまり関係ありません。あらかじめお断りしておきます。
演題のルカ・パチオーリという名前は初めてお聞きになった方がほとんどだと思います。しかし簿記や会計を学ぶ者は,必ず一度は教えられる人物です。1445年ごろに生まれたカトリック・フランチェスカ派の修道僧で,同時に高名な数学者でした。当時の名だたる大学,ローマ,ボローニア,ミラノ,フィレンツェ,ナポリなどの有名な大学で教鞭をとっていました。
彼が歴史に名を残すことになったのは,1494年に「算数,幾何,比および比例全書」という数学の教本を書いたからです。われわれ会計学者は略して「スンマ(全書)」と呼んでいます。
616ページからなる大冊で,その中の一部に,当時のヴェニスの商人たちが使っていた複式簿記のことが「計算および記録に関する特論」として22ページにわたって記述してあります。複式簿記法を最初に記述し,広く紹介したのがスンマであります。
パチオーリが複式簿記を発明したとか,考案したと言っている人たちがいます。例えば1878年に,彼の出身地であるサン・セポルクロの市民が複式簿記発明の偉業をたたえて記念碑をつくりました。記念碑には「商人の複式簿記を発明し……」との記述がありますが,これは間違いです。
商人たちはもう既に複式簿記を使っていました。それをスンマという本で紹介したということがパチオーリの功績です。彼が複式簿記を発明したのではありません。
今から500年前の中世イタリアのルネッサンス期に,この本で紹介された商人たちの複式簿記というのが,今現在でも世界の名だたる大企業によって実際に使われています。スンマに記述してある複式簿記と原理的に同じなわけです。
損益の計算が出来なければ,現在の資本主義社会は発展しなかったと言われています。複式簿記はそれを可能にしたわけですから,現在の企業会計を支えている複式簿記は,ルネッサンス期の文化遺産の一つとも言えるでしょう。
スンマに書いてある複式簿記は驚くべき勢いでヨーロッパ全土に伝わります。なぜ広がったのか。
そのころの,あるいはそれ以前のヨーロッパでは,古代ローマ時代から伝わっているローマ数字を使っていました。いわゆる時計数字ですね。
ゼロはインド人が発見したといいますが,アラビア数字もインドで開発されました。それがアラビア人によってヨーロッパに伝わり,広がったとされています。
ところで,会計上の借方とか,貸方,差引の残高などを集計するには,ローマ数字では絶対に無理です。アラビア数字でないと出来ないでしょう。急速に複式簿記が広まった大きな理由は,記帳にあたってアラビア数字の使用が勧められたため,ローマ数字からの転換が進み,それが複式簿記そのものの普及にもつながったと考えています。
500年以上たちました現在でも,その複式簿記は資本主義社会における企業会計の基礎をなしています。日本には1874年に福沢諭吉の「帳合之法」というアメリカの商業学校の簿記テキストの翻訳本として伝わりました。福沢諭吉は西洋式の複式簿記をわが国に初めて伝えた最大の功労者でもあります。それまでは,いわゆる「大福帳」で,単式簿記です。お金が入った,出たというだけの記帳をしていました。
レオナルド・ダ・ヴィンチとパチオーリは,ほぼ同時代の人物で,大変親しかったということです。2人の接点は何か。
当時のイタリアの芸術家たちはほとんど例外なく王侯貴族や豪族の庇護のもとで制作にいそしんでおりました。特に絵の場合,それ以前に描かれた宗教画のようにフラットな感じの絵でなく,生き生きとしたルネッサンス風の絵を描くようになりました。画家たちが遠近法を学んだことによります。
遠近法には二つあり,「近いものほど大きく,遠いものほど小さく見える。したがって絵をそのように描く」のが「線遠近法」。「遠くのものほど霞んで見える。近くのものははっきり見える」のが「空気遠近法」。例えば「最後の晩餐」は,室内では線遠近法が使われ,窓の外の絵は空気遠近法が巧みに用いられています。「モナ・リザ」では空気遠近法が使われているとのことです。
そして,この遠近法を体得するためにダ・ヴィンチは数学,特に幾何や比,比例を勉強する必要がありました。パチオーリはダ・ヴィンチにとって数学の先生でした。ダ・ヴィンチもパチオーリの著書に図形を描くなどして協力しました。
パチオーリとダ・ヴィンチの交流の逸話を題材にした「モナ・リザを描くダ・ヴィンチ」という版画もあります。パチオーリが著したスンマというのは,ダ・ヴィンチが描くところの名画,例えばモナ・リザや最後の晩餐と結びついていると言っても過言ではない。これを機会に,ダ・ヴィンチと大変親しかったパチオーリ,世界の複式簿記法をスンマという本によって最初に紹介した偉大な功績者であるパチオーリの名前を覚えていただければ幸いです。