1922年生まれ,’44年法政大学卒業。戦時中は陸軍少尉,特攻隊のパイロット。日本青年会議所会頭,大阪工業会副会長,大阪商工会議所議員,大阪北ロータリークラブ会長などを歴任。現在,プライミクス株式会社会長。
大阪RCにはたくさんの先輩方,仕事でお世話になっている方,JCの会員,あるいは友人だった方の2世らがおられて,驚いております。
大阪RCが創立されたのが大正11年,私も大正11年生まれで85歳になります。私が所属する大阪北RCは,大阪RCがスポンサーで1952(昭和27)年創立。私が日本JCの会頭になったのが1962年ですが,1961年に入れていただいて,通算47年の会員になっています。
1961年3月に日本で初めてのロータリー世界大会が東京でありまして,その時に多くの友達の輪が広がりました。
JCの方は,1950年に青年会議所ができまして,3年後にJCに入ったのですが,そこで佐治さん,森下さん,ダイキンの山田さんらと一緒に活動しまして,家族ぐるみのつき合いをしております。
埼玉県の行田市生まれですが,5歳の時に父が大阪に来まして,当時の海老江村で事業を始めました。昭和14年に法政大学の予科に入って,射撃をやりました。昭和16年に戦争が始まるのですが,国防的な部が優勢な時代で,射撃部は軍が弾を無料でくれて打ち放題ということで,神宮大会なんかで良い成績をあげられました。
昭和18年9月に勅令が出て,2カ月で軍隊に行かなければならなくなった。神宮外苑で東条英機さんの閲兵で,雨の中を行進して,学徒出陣です。
私は近衛三連隊というところに入隊させられて2カ月間基本教育を受けました。予備士官学校を受けるか,各兵科の試験を受けるか同じ死ぬなら航空隊がいいということで,立川の飛行学校で試験を受けました。佐野周二という俳優が班長で,彼に案内してもらいました。試験に通って,2月には宇都宮の飛行学校に入って,基本教育を受けました。
普通は2年くらいかけてやるのを6カ月の課程でやるので,朝から夜までべったりで,午前中は実科で飛ぶ練習をして,午後は気象学や構造関係,整備の訓練までさせられました。8月にまた試験があって,戦闘機,偵察,爆撃などがある中で,戦闘機にまわって,台湾に行って戦闘教育を受けました。今まではグライダーや赤トンボをやって,ある程度,単独で行けるようになっていたのですが,実戦に即した訓練をやらないかんということで台湾中の飛行場をずっと回って,いろいろな訓練をやりました。
20年の初めに,戦闘要員の訓練を特攻教育に変えられた。九州の菊池,それは鹿児島は知覧の部隊なんですが,特攻教育に限定して,菊池の飛行場で訓練を受け,岐阜県の各務原に移りました。それで,いよいよ特攻隊の編成がありました。
名前を呼ばれたら出てこいということで,1回目も2回目も,私の名前はありませんでした。そのうちに飛行機が足りないので,満州の奉天の飛行場にある隼戦闘機を取ってくることになりました。
関釜連絡船で釜山に行って,満鉄がつくった「亜細亜号」に乗って満州まで2日かかりました。満州の飛行場で飛行機を受け取ったのですが,何回か飛んだら調子が悪い。1週間とどまって,大丈夫だということで出発しましたが,鴨緑江の上空でタンクの弁が故障して,海軍の飛行場に不時着しました。修理してもらって各務原に戻ったら,飛行場は爆撃でほとんど,やられてしまっていて,端の方の平らなところに何とか滑り込みました。
特攻隊に出る連中は皆出てしまって,私とほか数人が留守部隊で残って8月末には私も行くことになっていたのですが,8月15日に終戦になりました。それでも,相模湾の米艦を攻撃するという命令が出て待機していたらせっかく終戦になったのに,琵琶湖に突っこんだりして,2人が亡くなりました。11月まで残務整理をして,いい経験をしました。
大阪に戻って,復興に努めたのですが,JCに入って友人ができたり,その友人からロータリーに入れてもらったり,JCの運動は地方につくらないかんということで,東京と大阪が中心になってやっているうちに,世界会議があったり,アジア会議があって,世界中に友人ができました。人のつながりはありがたいなと思って,感謝しています。
大阪北RCからの初のガバナー原田秀雄さんの時に代表幹事をやりましたが,当時は和歌山,奈良,京都,福井,大阪と広い地区でガバナーの公式訪問も大変でした。RIからの書類も全部,英語で,翻訳しながらやらなければいけないので,苦労しました。
ローターアクトクラブをつくることになって,一番につくろうと大阪北のテリトリーで申請をしました。川越RCが2日ほど早くて,苫小牧RCがその次で,大阪は3番目でした。来週はローターアクト週間ですが,そういう思い出もあります。
ロータリーの思い出はいろいろあるのですが,年数がたっても電話がかかってきて,日本に行くから頼む,というような連絡があったりします。
人のつながりはいろいろありまして,大阪の財界が35年前に「日華親善協会」というのをつくりました。終戦の時,蒋介石さんが賠償は辞退するとか,中国残留の一般人らを速やかに帰国させようと尽力してくれたので,その恩に報いなければいかんということで,大阪の財界が皆さんで会をつくってくれて,その会は今も続いております。
東京・大阪の若手の会で勉強したり,ゴルフをしたり,東急の五島さんの会,日銀の大阪支店長時代の三重野さんの会などもあって人脈は本当に大事だと思っています。