1931年大阪梅田生まれ。曽根崎幼稚園,同小学校,北野中学校,大高,京都大学卒業。住友修史室嘱託,龍谷大学助教授,大阪大学教授,帝塚山学院長などを経て,現在大阪歴史博物館館長。当クラブ入会’98年2月。
大阪の町の歴史は上町台地から出発します。古いところは森之宮遺跡などが台地の上に残っています。(台地の)東側は河内潟と言い,大和川が注ぐ非常な湿地帯でした。深江という地名がそれを示しています。西側も,船場という地名が指すように本来湿地帯です。だから,人が住むのは上町台地から出発したということです。
古代には難波宮がありました。平安時代には「渡辺党」という武士団がおり,東横堀の近くに本拠があったと思っています。渡辺党は源平争乱などで活躍し,一族には頼光さんの四天王の一人で,酒呑童子を退治に行った渡辺綱がいます。
室町時代には渡辺と四天王寺の西門前が,町として非常に繁栄します。また,崇禅寺領というのも出てきます。
十三から淡路へ向かうと崇禅寺という駅がありますが,お寺自体は小さなお堂です。室町時代は幕府の庇護を受け,非常に大きなお寺でした。そこの記録には,野田・福島・堂島といった領地の名前が出てきます。おもしろいのは「埋田之内角田」という記録です。「埋田」は今の「梅田」で,「埋田之内角田」というのは阪急百貨店がある角田町がそれに当たると思います。
私は曽根崎育ちで,子どものころには古老が「『埋田』だったのだけれど,ちょっと字が悪いし,カッコ悪いから天神さんの梅にちなんで『梅田』に変えたのだ」という話をなさっていました。
室町時代に本願寺の蓮如上人が隠居所を設けたのが「生玉庄内小坂」という場所で,恐らく上町台地どこかの坂に当たると思います。その「小坂」がいつの間にか「大坂」に変わったということです。
俗に石山本願寺と言いますがあれは間違いで,正式には「大坂本願寺」です。大坂という地名を使いたくない人がいたらしく,私はこれには文句を言っています。
大坂本願寺の境内には十数町の寺内町がありましたが,場所が確定していません。今の天守閣の辺りか,難波宮跡かどちらかでしょう。私は難波宮跡の辺りではないかと思っています。
今の大阪周辺の町には,寺内町として成立したところが非常にたくさんあります。八尾・久宝寺・富田林・貝塚・今井・富田・尼崎などです。私はこのうちの幾つかを調査し,特に富田林は私が最初に「寺内町だ」という論文を書きました。
本願寺はありましたが,大坂をこれだけ大きな都市として建設したのは秀吉です。まず上町台地の上を南へずっと,武家屋敷を作りました。ガラシャ夫人が亡くなられた細川邸は玉造の辺りにあります。上町台地の上にまず武家屋敷ができ,ちょっと湿地帯になるけれど,下の船場が町人の居住地になる――こういう形で町が建設されました。
町にはいろんな人を移住させました。町名をみても,伏見・平野・淡路・備後・安土・堺筋・久宝寺・和泉・神崎と,いろいろな町から移ってきたことが分かります。
職人も移住させたことが分かっています。大山崎の油の職人は秀吉が連れていったらしい。中世に,京都辺りの油を全部まかなっていた大山崎の油職人が大坂に移ってきて,大坂で仕事をしたようです。
大阪は淀川と大和川の河口に位置する水の都です。当時は大和川も京橋に入っており,2つの川の河口になるわけです。日本海から来る北前船,江戸へ行く菱垣廻船,樽廻船,京都へは三十石船が淀川をさかのぼる。南の方では国分船など,色々な船が行きます。
大坂は天下の台所と言われました。江戸は職人と小売商の町です。人口の半分ぐらいは武士ですから,それに対する小売りとか大工さんなどの職人がいるということになります。京都は高級品志向の町で,西陣がその代表です。内陸部ですから,付加価値の高いものをつくらないと,うまくいかないのでしょう。
そういう意味で大坂は,大衆的生活必需品の生産地であったと言えます。大山崎の油職人が代表で,大坂の天満に連れてこられて,油をつくりました。その油を大坂と京都,そして江戸へも送った訳です。江戸中期に天満で火事があった時,油の供給が途絶えるというので江戸幕府があわてたことがありました。
繊維関係もすごい。それから金属。これは住友です。それから,道修町の薬。大坂は町の中に産業がありました。
東京は,今でもそうですが,京葉工業地帯とか京浜工業地帯というふうに,産業を外に出します。一方大阪は内部に産業を取り込んでいるというところが特徴です。
それから,金融の中心になりました。 西鶴が大名貸しのことを「商売やめて豊かに暮らしぬ」と「日本永代蔵」の中に書いています。実業的な商売をやめて金融で暮らしているという訳です。代表的なのは鴻池です。鴻池銀行とこのロータリーの会員だった山口さんの山口銀行,第三十四銀行とが集まって三和銀行ができました。
鴻池さんは戦国武将の山中鹿之助幸盛のご子孫です。江戸時代に鹿之助の子孫だという侍が「お宅は山中鹿之助の子孫らしいが,わしもそうだ。これから昵懇に願いたい」と鴻池さんを訪ねた時,「当家はさような立派な家ではございません」と言って追っ払ったという逸話が残っており,どちらが本当かと思っていました。
あるとき,鴻池さんのご一門の方に尋ねたら,ケロッとして「うちはそうですよ。今でも鹿之助の法事をやっています」とおっしゃられました。