1952年東京生まれ。武蔵大学卒業後,埼玉銀行(現りそな銀行)を経て,’02年あさひ銀行(現りそな銀行)を退社。同年名古屋へ転居し,新陰流の稽古に専念。
’06年新陰流兵法第二十二世継承。各柳生会にて指導・講道を行う。上泉伊勢守顕彰・生誕500年祭実行委員会主催の「剣聖上泉伊勢守シンポジウム」で基調講演を行うなど講演も多数。
新陰流の歴史,特徴,精神,この3つについて今日はお話します。
まず,歴史です。流祖は上泉伊勢守で,上野国,今の群馬県の人です。当時は武田信玄がその群馬に侵攻しており,そこは箕輪城の長野氏という人を盟主に関東武士団が武田信玄の侵攻を防いでいたのです。それがついに武田信玄の攻略に屈することになり,上泉伊勢守はそのとき武将の道をあきらめて,その当時自分が創始した新陰流というものを天下に広めようと,京都に上ってきたわけです。それが永禄6年(1563)で,約450年ぐらい前のことです。
奈良の宝蔵院で,柳生石舟斎宗厳という祖先の者がこの上泉伊勢守と試合をしまして,石舟斎は全く足元にも及ばない状態でした。それで早速入門,柳生の里にお連れして,約半年近く毎日指導を受け,それを機会に,柳生家に伝わった新陰流ということで「柳生新陰流」が始まるわけです。そのとき石舟斎は35歳でした。
当時は足利義輝を信長が擁立していた時代で,石舟斎はそのために京都で働きました。足利幕府は信長と意が合わずになくなるわけですが,石舟斎はそれ以来政治の世界から身を引いて,柳生の里に戻り,78歳になるまで新陰流をずっと研鑽したわけです。
石舟斎が66歳のときに家康に兵法を見せたのですが,家康がそれを非常に気に入り,先生になれと言ったわけです。石舟斎はトシだということで,息子の宗矩を代わりにつかわしました。そこで徳川家康,徳川幕府と柳生宗矩という関係が始まり,柳生宗矩は二代秀忠,三代家光の兵法師範として,「江戸柳生」を興したわけです。
一方,石舟斎の長男の子どもである兵庫助利厳という者が,新陰流の第3世になり,兵庫助は元和元年(1615)に尾張の初代藩主の徳川義直公の兵法師範ということで名古屋に参りました。以来,今日に至るまで続いているというわけです。これが江戸の柳生と尾張の柳生との違いになるわけです。
尾張の柳生は,元和元年に義直公の先生になったわけですが,5年後に義直公に第4世の新陰流の宗家を譲り,以来,尾張藩主と柳生家と交代で新陰流の宗家を務めました。明治維新を迎えたときの徳川慶恕公は,第18世の柳生新陰流宗家になりました。そのように尾張藩の庇護がありましたので,幸いにして尾張柳生というものが今日まで伝わったというふうに思っております。
江戸中期から幕末にかけて,尾張藩の藩士で,その禄をいただきながら藩命によってこの新陰流を研究した方がおり,流祖から石舟斎,兵庫助利厳の残っている口伝書を研究し,その結果を解説して字に残していただいているので,現在もその考え方と使い方がわりかた残っているのです。
次に,新陰流の特徴です。流祖の上泉伊勢守は,「性自然」「転(まろばし)」という2つの概念を考えまして,新陰流というのを創始したわけです。
この「性自然」は,兵法においては何かというと,「刀身一致」とか「心身一如」ということで表すことができます。「刀身一致」は,刀と身が1つであるという言葉です。「心身一如」は,心と身を1つに使う,1つになって使うということです。
もう1つ,「転(まろばし)」は何かと言いますと,「懸待表裏一隅を守らず」という言葉でもあります。当時斬り合いの4つの要素として,攻撃する「懸」,守る「待」,刀の刃のほうから攻める「表」,「裏」から攻めるという4つのアプローチがあるのですが,そのどれ一つにも固執するな,その状況に応じて,敵に従って使うということです。
「性自然」,「転(まろばし)」,この2つの考え方を今までの使い方と全く違う新しいものとして流祖が見い出して,新しい陰流「新陰流」ができたわけです。
流祖はまた,剣術を稽古するにはどうしたらいいかと,「ふくろしない」を考案しました。これは,2尺4寸(72センチ)の皮の袋に,柄を8寸(24センチ)とする竹を8つに割り,それに入れて竹光とするものです。
それまでは木刀とか刃切りの真剣とかでやり,ケガをしますからどうしても本当のところが出ない。ところが,竹を割って皮に入れてあるわけですから,ケガをしにくい。微妙なところを本当に試してみることができるようになったのです。
最後に,精神です。石舟斎は「兵法百歌」というのを残しており,その中で「兵法に五常こころなき人にきりあい極意伝えゆるすな」,「温良恭倹譲は新陰の兵法の法度極意なりけり」と2つの言葉を残しています。五常というのは「仁義礼智信」でありますが,「仁義礼智信」という徳目,あるいは「温良恭倹譲」という徳目を持っていない者はだめだ。だから,真実の人は少なくともそういう徳目を備えていなければならないということです。
なおかつ「柳生家憲」という中には,「きのふの我にきょうは勝つべし」という言葉がありまして,一生をかけて自分の次の理想に向けて精進をし続けたという自分自身の姿を表す言葉を残しておりました。
われわれは,400年近く続く伝統を道場の上で実際に身を動かしながら,そしてそのもとになる心の状態を,真実の人に近づけるように稽古をしながら,日常生活の中に生かしていきたいと考えています。