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2010年7月9日(金)第4,309回 例会

聖武天皇の意思

森 本  公 誠 氏

東大寺長老 森 本  公 誠 

1934年,姫路市生まれ。15歳で東大寺に入寺。京都大学大学院でイスラム学を学ぶ。’61年,カイロ大学に留学。’65年~’98年,京都大学講師。東大寺清凉院住職,執事長,東大寺学園理事長などを歴任。’04年~’07年まで,218世東大寺別当・華厳宗管長を務め,現在に至る。

 今年は平城遷都1300年という記念すべき年です。平城京の時代を象徴する天皇はやはり,聖武天皇だと思います。

 聖武天皇は24歳で即位し,死刑廃止論に当たる刑罰の軽減策,中央と地方の官僚の綱紀粛正と官僚制度改革,高齢者や心身障害者の保護などの新しい政策を次々に打ち出しました。

 しかし,即位後8年の天平4年(732年)の夏は全く雨が降らず,このため翌年は飢饉になりました。天平6年(734年)には大地震が起きました。こういう不安なことが続くと,飢餓状態に陥った人々が大勢出て,他人の物を盗んででも生きようとします。飢餓は国民に心の荒廃をもたらし,犯罪が激増しました。

 これに対し,聖武天皇は天平6年に「全国の牢屋が罪人でいっぱいなのは,自分の政治が行き届いていないためで,責めはわれ一人にある」と宣言し,全国に通達させました。

高齢者に手厚い配慮

  天変地異は続き,天平7年(735年)には天然痘が日本を襲いました。聖武天皇は寛大な政治をしたいと考え,高齢者に対して年齢に応じて米を支給するように,地方の役人に指示しました。

 これは災害が起これば最も犠牲になるのは高齢者であり,困った人たちを助けられるかどうかが政治の真価を問われることになるからです。

 天平8年(736年)は凶作になりました。翌年は天然痘が全国に大流行し,数え切れないほどの人たちが亡くなりました。

 官僚が行う具体的な政策とは別に,天皇としては精神の荒廃した民をいかにして救済すればいいか,精神的支柱となるべき政策を打ち出す必要に迫られました。国民に自分の思想を理解させるためには,わかりやすく,目に見える形をとらねばなりません。そして,出した結論が2つの大プロジェクトでした。

 第1は全国に国分寺と国分尼寺を建立して,仏教思想の普及を図ることです。第2は何もかもを温かく包み込む象徴としての光の仏,盧舎那仏(るしゃなぶつ)が鎮座する新たな都を建設することです。

 この2大プロジェクトが決定するについては,第1は,「金光明最勝王経」,第2は「華厳経」が根拠になっています。

 国分寺は国家を護るお寺ですが,在家の人たちに対して仏教思想を啓蒙する役割もありました。つまり,人々が集まって仏教の僧侶の話を聞く場です。月のうち6日(8・14・ 15・23・29・30)の間は生き物を殺してはならない。山の猟師も海の漁師も,その日は仕事になりません。つまり,「お休みだから,休みの日はお寺に来て僧侶の話を聞きなさい」ということです。

 この中で,14・15と29・30は連日になっています。今の制度で言うと,土日の連休です。この時は,在家の人たちも国分寺に来て一昼夜に限って①殺さない②盗まない③うそをつかない④セックスをしない⑤酒を飲まない⑥着飾らない⑦歌舞をしない⑧大きなベッドに寝ない⑨昼以降は何も食べないという9つの戒律「一日一夜の八斎戒」を守りました。

 われわれ人間というのは欲望というアクセルしかついていない車のようなものであって,人間が欲望にかられて暴走しないように心のブレーキを身につけなさいという精神です。

 国分寺には20人の僧侶を置き,尼寺には10人の尼さんを置くということも決めました。国分寺の場合,全国は60余の国に分かれていたから,全部で1,200人以上の僧侶が要ります。その僧侶を教育する役割を担ったのが後の東大寺でした。

大仏造立に260万人結集

 第2のプロジェクト,盧舎那仏が鎮座する新しい都の建設は当初,今の滋賀県の信楽で計画しましたが,地震などが起こって失敗しました。もとの平城京に帰り,新しい都の建設をあきらめたわけです。しかし,盧舎那仏の造立はあきらめませんでした。

 そのことを述べる「盧舎那大仏発願の詔」が天平15年(743年)10月に出されました。天皇は「生きとし生けるものすべての救済,つまり,植物も動物もともに栄えるということを目指し,そのために菩薩としての大きな願いをたて,一枝の草,一つかみの土といった,たとえわずかな力であっても,志があれば進んで参加するように」と,全ての民に呼びかけました。

 この呼びかけに応えて,材木やお米など物資を提供できる人,お金を寄進できる人,労働奉仕のできる人,天変地異による失業対策として雇用した労働者など,延べ260万人が結集して大仏の造立事業が進められ,仏教伝来200年目に当たる天平勝宝4年(752年)4月9日,開眼供養を営むことができました。

 260万人というのはとてつもない数字で,当時の日本の人口の約半分に当たると言われています。聖武天皇のそれまでの政治が人々によく受け入れられたからであろうと思います。

現代に多くのメッセージ

 約1300年前のことですが,聖武天皇の政治姿勢は,今日の日本人に多くのメッセージを与えているように思います。

 民を治める者としての理念の追求は今,政治家に最も求めたいものです。それから官僚の操縦法,災害時の困窮者への対応,最高主権者としての責任感,疲弊した国民の精神的支柱への模索,国民啓蒙手段の創設,人心の掌握,国民総動員のための普遍的理念などです。

 このようなメッセージを現代に即応して,いかに読みかえるか。これは現代のわれわれの志にかかっていると私は思っております。