1943年福岡生まれ。大阪府立池田高等学校を経て,’67年に神戸大学経済学部を卒業。神戸大学経済学部助手,大阪大学経済学部助教授を経て,’88年大阪大学経済学部教授に就任。その後大阪大学経済学部長,関西学院大学大学院経営戦略研究科教授を歴任。経営史学会会長や日本学術会議会員も務めた。経済学博士。専攻は日本経済史,日本経営史。大阪大学名誉教授。2015年秋のNHK連続テレビ小説「あさが来た」の時代考証を担当。著書多数。父親の宮本又次氏も日本経済史の研究者。 当クラブ入会’09年3月。’13年職業奉仕(長)・理事,’16年米山(長),’17年ロータリー情報(長)。
本日は大阪の歴史に関する話です。先週は文楽で曽根崎新地の話でしたが,今週はその南の堂島の話です。曽根崎新地と堂島を両方合わせて北の新地と言っていますが,お酒の話は出てきませんし,女性も出てきません。(笑)
1988年に大阪証券取引所が日経225先物市場を開設し,その30周年記念として,大きな御影石を米粒の形に加工したモニュメント「一粒の光」が昨年10月24日に建立されました。安藤忠雄さんのデザインによるもので,堂島の大江橋と渡辺橋の間,ANAクラウンプラザホテルと新ダイビルの間に立っています。
モニュメントの碑文には,「堂島という米市場では,米切手という紙切れが売買されていた。その米市というのは先物取引も含んでおり,それが世界最初の先物取引所であると言われている。そして,これが全国の米相場の基準となった。それに加えて,今日の証券取引所や商品取引所にその制度とか慣行の多くは受け継がれている」と書かれています。
江戸時代になぜ米の大市場が大坂にできたのか。理由としては,江戸時代に米の大増産があったこと,年貢は原則として米納であったということ,そして輸送手段,特に海運と河川水運が非常に発達したことが挙げられます。こういった要因で,中央都市である大坂や江戸に米の大市場ができました。
諸藩が大坂に廻送する年貢米のことを大坂廻米といい,17世紀の中頃までに毎年150万石から200万石ぐらいの米が集まり,蔵屋敷で収納していました。中之島はほとんどが蔵屋敷だったのですが,今その遺構は1つしか残っておりません。
そのようにして大坂に米が集まり,17世紀の初め頃から色々なところに米市ができました。その最大のものが,淀屋橋の南詰でミズノから住友ビルの前あたりの道路のところにできた淀屋米市です。
1697(元禄10)年,淀屋米市は堂島の新地へ移転しました。元禄時代から享保時代にかけて米価が転落し,米価引き立てのため,1730(享保15)年,堂島米市場は幕府に公認されました。
堂島米市場は,1,300人の公認米仲買だけが取引に参加できる会員制の取引所でした。現物である正米,先物の帳合米,この2つが併設されていたのが大きな特徴です。
当時の流通機構を説明しましょう。農民が大名に納めた年貢が大坂の蔵屋敷に運ばれ,蔵屋敷は入札制によって指定の米仲買に販売。落札した米仲買は米切手という証券をもらい,その米切手は米の実需業者,例えば問屋に売っても堂島米市場で売ってもいい。米切手を手に入れた実需業者は,切手を蔵屋敷に持っていけば米がもらえるという仕組みです。
正米商いは米切手を売買し,4日以内に受け渡しをします。取引単位は10石。10石とは1.5㌧です。1.5㌧の米をその都度やり取りするのは大変ですが,米切手1枚あれば1.5㌧の米がやり取りできる。米切手を貸したり,それを担保にして金を入れる,日本証券金融会社のような会社があり,それが入替両替という両替屋でした。
一方,帳簿上で取引する帳合米商いは,取引ごとに米切手や代銀の授受は行わず,単に帳面上に記しておくだけで,敷銀と手数料だけ払えばいい。差銀決済が原則の取引でした。
江戸時代の有名な学者・山片蟠桃は,堂島のことを「天下は知を集め,血液を通わし,大成するものは,大坂の米相場なり」「切手米と帳合米とは昼夜のごとし。並び行われて相悖(もと)らざるなり。大坂冬中の諸家売り米百万石,滞る事なくして,一匁も下らざるは切手の功にして,又帳合米の調剤あるを以てなり」と非常に高く評価していました。
世界で本格的な先物取引は1860年に始まったシカゴの商品取引所と言われていますが,大坂の米市場はシカゴより130年ほど早い。シカゴの商品取引便覧には,「1730年代に日本の大坂において先物取引を含む商品取引所が存在していたことは驚くべきことである」と書かれています。
実はこれからが面白くなるのですが,時間が少なくなってきました。
明治初期,政府は堂島の先物取引を禁止します。その後,五代友厚が堂島米商会所と大阪株式取引所をつくりますが,取引所に対しては,有害論VS必要論が非常に盛んになりました。そして,ついに1893(明治26)年,戦前の取引所制度である取引所法の制定で決着がつき,株式取引所は定期取引中心,現物取引は場外で行うことが原則になりました。
米の方は,1939(昭和14)年に米穀配給統制法が始まり,米穀取引所は閉鎖されました。戦後,株式市場は復活しましたが,GHQの指令で先物取引は不許可となり,これで日本人のリスクヘッジ感覚というのは非常に鈍ったのではないかと思います。
そして’88(昭和63)年に日経225先物市場が大阪証券取引所で開設され,今日大阪がデリバティブ取引を一手に引き受けていくことになりました。
米は,2011(平成23)年に東京穀物商品取引所と関西商品取引所で,米先物取引が試験的に始まりましたが,農林水産省がまだ本取引を認めていないため,試験取引だけに終わっています。
最後に,大阪取引所からいただいたデータによると,今日,大阪取引所のデリバティブ取引は年々非常に伸びております。世界の流れはデリバティブ取引のほうが主流ですので,大阪取引所の将来は極めて明るいと思う次第です。
(スライドとともに)