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2019年5月24日(金)第4,716回 例会

司馬遼太郎と大阪

上 村  洋 行 氏

司馬遼太郎記念館
館 長
上 村  洋 行 

1943年東大阪市生まれ。同志社大学法学部卒業。’67年産経新聞社入社。大阪本社社会部,文化部次長,メディア報道部長,京都総局長,大阪本社編集局局次長。司馬遼太郎記念財団専務理事をへて公益財団法人司馬遼太郎記念財団理事長。司馬遼太郎記念館館長(兼務)。

 私がこれからお話をしようと思うのは,大阪というものが大変民間の努力に負うところが大きいという話であります。

河内木綿の興隆が生んだ大坂の貨幣経済

 河内平野がまだ湿地帯で,大和川の支流が随分流れ込んで氾濫のたびに水浸しになっていた時期に,河内平野にあります庄屋の中甚兵衛という人が大和川の付け替え工事を息子の代までやりながら完成させる,そのお陰で大和川の流れは河内平野を通って堺に流れ込むというルートに変わるわけですね。そのために,新田が次々と開発されていく,菱屋新田,菱屋庄左エ門,東大阪に菱屋西というところがあります。鴻池新田,みな民間が開発していった土地であります。
 この巨大な河内平野に大きな産業「河内木綿」が興ります。生駒山麓にかけて壮大な畑ができまして,農家の次男,三男が木綿の生産に当たります。河内木綿を栽培するのに動物性の肥料が要る,そこで北海道の鰊ニシンを使うという発想が生まれ,河内木綿の栽培を一気に大きくしていく。このプロセスの中で,一種の「商品経済」が発達していく。すると「貨幣経済」というのが出てくる。室町の時代からだんだん研ぎ澄まされながら,江戸時代幕末には,もう今と変わらないシステムに変わっていくわけです。世界的にもこの日本の経済システムは関心を集めています。
 この商品経済に司馬遼太郎は大変関心を持ちまして,商品経済が発達していくと,商品の「質」をまず意識し始める,あるいは「数量」を意識する。そして「貨幣を信用」するということから「倫理観」のようなものにまで影響してくる。―「個人」の確立ですね。アジアの国々にこういうシステムはあまり発達していなかったものですから,日本列島は貨幣経済があったお陰で,比較的早くに物事の判断力がついてくる。これは大坂の学問にまで影響してくるわけです。

民から生まれた町人学者と実学

 その学問に影響してくるのは,例えば,大坂には「懐徳堂」という,これ大阪大学の前身といってもいいかもしれません,大坂の5人の豪商が出資して民間で建てた私塾,懐徳堂であります。江戸では幕府直轄の学問所「湯島聖堂」がありまして,懐徳堂よりも古くからあるんですが,まだ儒教の道徳的なことだけを教える学問で,「昌平坂学問所」に変わっても武士階級の学ぶ場でした。
 ところが,この懐徳堂は,ここが大坂人の大変すばらしいところですけれども,貴賤,貧富にこだわるなと,皆,平等であると。農民の子も,商家の子も一緒になって勉強する。しかも儒教が中心であっても,諸学をミックスするところが大坂の幅の広いところでありました。
 そういう中で,大変すばらしいことが起こっていきます。懐徳堂に学ぶ人たちの中から,町人学者が誕生する。今の人文科学,あるいはサイエンスそのものの学問が生まれた。例えば,富永仲基という醤油屋の息子がいますが,日本に伝わっている大乗仏教はお釈迦さんの説ではないんだと。100年から200年の後の人が考えた経典が今の日本の仏教だという説を精密に文献資料を分析して考えた。あるいは山片蟠桃という人は,両替商の大店の主人が死んだために没落寸前になったときに,幼い子どもをカバーして立て直し,当時東北にある仙台藩が窮地に陥ったときには,財政を改革して立ち直らせた人であります。学問の世界で大変大きな功績をあげ,既に天文学で太陽とか惑星,恒星の区別もできて,しかも世界には仏教だけではなくいろんな宗教があると言い,世界の地理環境も把握できていた。あるいは草間直方という人は「貨幣経済」の研究をしました。
 大坂からこういう実学的なものが生まれたのはなぜかと考えてみますと,大坂はもともと藩ではなく天領ですから,幕府直轄地です。しかも,町の中には侍が極めて少ない。いわば町人の社会でありますから,お上というものに頼らないで自分でやらなければいけないという精神が生まれる。大坂には八百八橋といって168ほどの橋があったそうですが,そのうち幕府が建てた「公儀橋」は12~14本ほど,あと全部民間が建てた「町まちばし橋」です。

世のためになりたい人が支えてきた町

 そして,もうひとつ大きなことは,文化面ですね。皆さんご承知の井原西鶴,あるいは近松門左衛門から浄瑠璃,あるいはいろんな文化を旦那衆が学んで,旦那衆がサロンのようなものをつくる。江戸の半ばぐらい,大坂心斎橋には600mほどの間に40~50軒の大店の本屋さんがあって,その前で丁稚たちが本の荷造りをしている風景が,江戸の滑稽本の作者で銀鶏という人の書物の中に出てくるんです。江戸でもこれだけの本の大店が40~50軒も並んでいる風景というのは見たことがないというんですね。そういう背景があって,大坂はどうも今以上に文化度が高い。しかも,人のため,世のためになりたい,そして出資をしたいという人たちがたくさんいたことを,歴史を少し垣間見ていくとわかってくる。
 司馬遼太郎は,大坂の町をいろんな角度から考えましたけれども,都市とは一体何なのかというようなことを話していたことがありました。都市とは機能だと。機能というものが都市だと。その機能の中で,いかに機能性が富んだ町にしていくか。都市のすばらしさは,人々がそこに参加する「場所」であることが大事なんだ。同時に,秩序が大変大事であると。これはやっぱり「都市生活者」がつくっていかなきゃいけないんだと言っておりました。自分中心のものの考え方は都市の中では成り立たない,やはり周囲への配慮というものが必要であろう。自分だけがよければいいんだというような思いにならないでいてほしい。
 私たちは町を,関心を持って見ていかなきゃいけない。今日冒頭で皆さんがお歌いになった「四つのテスト」というのはまさにそのとおりで,ぜひ皆さん思いを持って,このロータリークラブがひとつの牽引役を果たしてくださらんことを強く思います。