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2021年2月19日(金)第4,778回 例会

京舞について

井 上  安寿子 氏

井上流 井 上  安寿子 

1988年能楽観世流九世観世銕之丞と京舞井上流五世家元井上八千代の長女として京都に生まれる。2歳より稽古を始め,四世及び五世井上八千代に師事。3歳で「四世井上八千代米寿の会」にて初舞台(上方唄「七福神」)。2006年井上流名取となる。’11年京都造形芸術大学卒業。’13年京舞公演「葉々(ようよう)の会」を発足。同年第50回なにわ芸術祭新進舞踊家競演会新人賞,’15年京都市芸術新人賞,’16年第36回伝統文化ポーラ賞奨励賞,’18年東京新聞第1回日本舞踊新鋭賞,’19年芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。

 京舞井上流というのは日本舞踊の流派の一つで,京都で発展した流儀です。上方舞と言って,大阪とか京都とか近畿内ではやった座敷舞の一つになります。どちらかというと,地味でちょっととっつきにくい流派ではありますが,どこかでご覧いただいていたらうれしいなと思います。
 京都には五つの花街がございまして,先斗町,宮川町,上七軒,祇園東,そして私たちが関わっている祇園甲部になります。実はそれぞれ流儀が違いまして,先斗町は尾上流さん,宮川町は若柳流さん,上七軒は花柳流さん,そして祇園東は藤間勘右衛門派の藤間流さん,そして祇園甲部が井上流になります。

京都の街には2つの流れが共存

 それぞれをジャンルに分けると,「踊り」と「舞い」になります。そもそも踊りと舞いは何が違うかっていう話ですが,踊りというのは上下運動,跳躍するような動き,比較的自由な動きというものです。舞いは,どちらかというと旋回運動で,様式に則ったある程度制約のあるものというのが固い本に書かれています。舞いはどっちかというと能とか文楽に近く,踊りというのは歌舞伎のほうに近いとされています。
 日本舞踊というのは,能や文楽とか歌舞伎の影響を受けてできましたが,京都の街は,江戸の歌舞伎舞踊の影響を含んだ踊りと,上方で発展した能とか文楽が影響した舞い,この2つの流れが共存しているといえます。
 ここから歴史の話をします。京舞井上流というのは,今から200年ほど前に,井上サトという人が始めました。井上サトは明和4年(1767年)生まれで,16歳のときに近衛家に行儀見習いとしてまいります。そこで普通の街では見られないような宮中の行事であるとか,様々な芸能に接して見聞きしたことで井上流の基盤をつくり上げていったといわれています。
 31歳のとき宿下がりが許されて,そのときに,直接の老女頭である南大路鶴江という方に,「そなたのことは,玉椿の八千代にかけて忘れぬ」という言葉をいただき,すごく名残を惜しまれたそうです。近衛家というのは,和歌を文化の基盤に持っているお公家様のお家ですので,玉椿の玉というのは椿の美称で,椿は和歌の世界で8千年の齢(よわい)を持つ長寿の象徴とされています。それがつまり,「あなたのことはあの8千年の齢を誇る椿のようにいついつまでも忘れない」というお言葉をちょうだいして,また近衛家の奥方様からは,「井菱の紋」を切り抜いていただいたそうです。このときから,井上流の家元は代々「八千代」を名乗り,「井菱」を流儀の紋としました。

歌舞伎とあまり接触せずに歩む

 このサトは,それから島原の舞いの師匠になったりしますが,後を姪の本名アヤに引き継いでいきます。この二世のアヤは,能とか文楽に造詣が深くて,能を京都の金剛流の野村三次郎さんに私淑しまして,能の曲を井上流のレパートリーとしてたくさん取り入れたと言われています。この二世の時代は,お座敷ではなくて,花道のついた大きな舞台を必要とする義太夫ものというのが多くつくられたんですが,この当時,舞踊家として有名になるには,歌舞伎の振付師になるというのが一番だったそうです。この井上流の舞いは歌舞伎や文楽の舞台で上演されるということはあまりありませんでした。
 これはすごい井上流の特徴の一つで,広く日本舞踊の世界を見渡しても,歌舞伎とあまり接触せずに歩んできた流派というのは数少ないんです。歌舞伎と接触せずに舞い続けてきたというのは,何が一番かというと,歌舞伎には女形の方がいらっしゃいますが,その女形の踊りを工夫しなくてよかったということ。これは肉体を媒体として表現する舞踊にとっては非常に大きな意味を持っています。

祇園街とのつながり強く

 次の三世は,本名春子(二世の門弟)。明治5年,東京遷都によってさびれてしまった京都の街の復興を図って,日本で初の博覧会が開かれることになりました。その附(つけ)博覧として,祇園街の芸妓,舞妓による余興が企画され,それが今の「都をどり」となっています。
 この春子は政治的な人だったそうで,「私が祇園街の指導をする代わりに,祇園街の人は絶対によその流儀を習わないでください」というふうな取り決めをしたそうです。それによって祇園街とのつながりが強くなりました。これからずっと,祇園街とのつながりが続いています。
 次は四世,本名愛子(三世の門弟),私の曾祖母に当たります。三世まではお会いしたこともないので正直あまりよくわからないことが多いんですが,この四世には小さい頃からお稽古をつけてもらったりしていまして,一番脂の乗った時期は見たことはないんですが,うちの流儀ではすごくカリスマ的な存在として扱われています。
 ちょっと体調が悪くて稽古場に壁伝いで歩いてきたのに,稽古が始まると怒り出して,「フラフラ歩いてきはったのは何やったんや」というような話をよく昔の芸妓さんから聞くんですが,稽古に関してもすごく厳しかったそうです。
 それから私の母,五世,本名三千子(四世の孫)に引き継がれています。
 まとめますと,この井上流というのは,女性ばかりでつないできたということと,花街とのつながり,そして能楽とのつながりが強く,先ほど申し上げた歌舞伎舞踊との接触というのがほぼないということが一番強いことであります。
(スライドとともに)